Skip to main content

Full text of "Masaoka Shiki"

See other formats


規子 岡 正の てし と 家 t 蓬 ひ:^ 人 




PL Nishinomiya, Tocho 

811 Masaoka Shiki 

A83Z828 



s 

a 

E 



JJ 



人 及び 藝術 It p=?> F M 

家と しての 一 丄 P nj J 



私 は 所謂 俳人で ない とい ふ點に 於いて は、 1<4 くの 門外漢で ある。 けれども 俳人 必す 

しも 俳句 を 解す る もので なく、 門外漢 必す しも 俳句 を 解 しないと いふ 理由 はない。 耍 

する に 俳句 を 解す るか 何う かとい ふこと は • 藝術を 解す るか 何う かとい ふ點に 依據し 

なければ ならない. 門外漢た る 私が 俳人 子規の 評 傳を敢 へて したの は * 此の 點 から 勇 

氣づ けられた からで ある。 子規 居士 其の 人 も 旣に當 時の 所謂 俳句の 門外漢で はな かつ 

たか。 

本書 は 今 曰の 所謂 俳句の 門內漢 から 見たならば、 多少 不滿 の點が あるか も 知れない。 

その 人達の 見方に 拆觸 する やうな 茴所も あるか も 知れない。 けれども 門: E 漢の 見方が 

必す しも 安當 である 理由 はない。 今日の 俳壇に あって は、 門 內漢が 却って 正しき 兌 解, 

から 遠ざかって ゐる倾 向が あると 言 はれて ゐる。 今日 一部の 俳壇に! ir ひ 子規の 事樂を 



囘 顧しょう とする ものが 出て 來 たの は、 それ を證 明して ゐる もので はなから うか。 そ 

れ はまこと にょい 傾向で ある。 けれども 藝 術の 正しき 兒 解から 遠ざかって ゐ ると ころ 

の 彼等 自身の 眼で 子規の 事業 を るよりも * 此の際 寧ろ 1: 外漢 たる もの 乂 眼から 晃た 

子規 を: a る 必要がない であらう か。 若し 斯うした 意味に 於いて、 多少な りと も 本書 か 

ら得 ると ころがあった ならば、 私の 希望 は 達する ので ある。 

大正 七 年 四月 二日 

久世 3 下にて 西 宮 , 膝 朝識 



第一章 子規と その 時 代 

第二 章 子 規 の 事 業 

第 一一 一 章 子規と は 如何なる 人ぞ 

1 、松 山 時 代 

二、 束お 遊學時 代 

一一 一、 新閒 _m 者 時 代 •■ 

四、 m 時 代 

第 四 章 子規と その 周 圍 

第五 章 改革者と しての 子規の 性格 及び 其 態度 

第 六 章 子規の 俳 論 



=、 俳句と 他の 文 學 ん七 

三、 俳句の 種類と 季題 - 10 一一 

四、 俳句と 連想、 印象、 其 他 10 八 

五、 芭 論 と 蕪 村 論. ニ_!- 

六、 月並 俳句 と 新 俳句 1 舰 

第 t 章 俳人と しての 子規 …: 50 

第 八 章 歌人と しての 子規 一 さ 

第 九 章 子規の 寫生文 論 101 

(附) 子規 年 譜 に 六 



人 及び 藝術 ijj ^ f4J 

家と しての FT- i 

-ffi 宮 一一 



朝 
著 



第一章 子規と その 時代 

明治 前半期の 文 藝界に 於いて は、 何れの 方面で も 其の 主要なる 活動 は、 薛文喜 破 壌 

の 運動で あり、 又 それと 同時に 新文藝 樹立の 努力であった。 小說 方面で も • 和歌 方面 

でも、 俳句 方面で も、 凡て さう した 活動 を 基調と して 進んで 來 たので ある。 それら は 

一種の 運動で あると は 言 ひながら、 尙 其の 運動の 指導者と いふか、 支配者と いふか • 

鬼に それの 巾 心と なる 人物がなければ ならない。 さう した 人物 を、 若し 小 說界に 求 

めるならば、 『小説 神髓』 を 著した 评內逍 逸 氏が ある。 若し 和歌の 方面に 求めるならば 

淺香社 を 組織して 新進 歌人 を 養成した 落 合 直 文 氏が ある。 然し 之 を 俳句 界に 求めるな 

らば、 誰を擧 ぐる ことが 出來 ようか。 言 ふ 迄 もな くそれ は 我が 正 岡 子規 共 人で ある。 

私 は 子規が 如何なる 意味 で 新 俳句 樹立の 中心人物 であるか、 如何なる 機 連に 依って 

それが 爲 された か、 とい ふ 11 題 を 述べようと S め ふので あるが * それに 先き; i つて, 



づ當 時の 一 般文明 乃至 文壇の 有様 を 少し; おらなければ ならない。 

維新 以來 * 我^ は外國 文明の 輪 入に 是れ日 も 足らざる 急がし ぃ冇樣 であった が、 初 

め は 先づ富 W 的 方面に 關係 ある ものから 輸入が 行 はれた。 例へば 國家 組織、 政治 上の 

諸^ 度、 兵制、 敎育 制度 等に 關 する 知識の 如き は それで ある。 これ は 如何なる 國 にあ 

つても 他の 文明 を 輸入 せんとす る 時に 必す 踏むべき 順序で ある。 卽ち 功利的 物質的に 

必- § ^な ものから 漸次 精神的の ものに 及ぶ ので ある。 我國 にあっても 初 は 國以來 十 年 

十 パ卟 とい ふ もの は、 殆ん ど國冢 及び 社き の 健全なる 基礎の at ー設に 忙しくて、 他の 純 

精神的 方面 を 顧みる 遑 はなかった ので ある。 福 澤論吉 翁な どが 權威を 持つ てゐ たの 

は、 ^勢 上當 然の襄 とい はねば ならない。 

さう した 有様で あるが 故に、 新しい 文舉 などが 興らう 道理がない。 唯德川 時代の 末 

頃から 墮 落し 初めた 文 舉の餘 命が • 漸く 保 たれて ゐ ると いふ だけに 過ぎなかった。 例 

へば 戯作 紫 的 方面で は 假名 垣# 文と か、 三世 種彥 (高 C 藍 泉) とか、 二世. 春 水 (染 崎延 



房) とかい ふ 連中が、 『西洋 膝 栗毛』 『安 愚樂 鍋』 『胡瓜 圆解』 『白 縫物 語』 『八 犬 傅 犬 

草子』 『北 雪 美談 時代 加 賀實』 『雜談 雨 夜 之 質 靡』 など & いふ もの を 書いて、 文化、 文 

政 以後の 作者の 糟 粕を甞 めて ゐ たので ある。 

虚が 斯うした 文擧で 何時 迄 も 満足して ゐる わけに は 行かぬ。 一 方で は 政治家が 外國 

の 政治 小 說を讀 みて 感動し、 それ を我國 に飜譯 する ことが 流行し 出した。 『西洋.^ 潮の 

荒波』 とか 『自. S の 凱歌』 とかい ふの は、 それで ある。 斯くて 外國 にも 戯作の ある こ 

と を 知った 當 時の 新しい 人々 は、 漸く その 讀 書の 範圍 を擄げ て、 政治 小說 とか 革命 小 

說 とかい ふ もの 以外の, 純 粹の小 說に眼 を 着ける やうに なり、 リットン、 ヂスレ リイ、 

ュ. "ゴ ー、 シェ タス ビアな ど を 好んで 翻譯し 出した ので ある。 - 

斯うした 西洋の 純藝 術に 養 はれた 新しい 人々 は、 小說と は何ぞ や、 文 學とは 何ぞゃ 

など、 いふ 根本の 藝術的 疑問に 突き 當 つて それに 對 する 知識 を 得、 漸く 我國の 文壇に 

向って 革新の 機運 を 作らん としたの である。 而 して それ を 最も 促進した もの は、 明治 



十八 年に 出た 坪內 逍遙 氏 Q 『小說 神髓』 とい ふ文學 ii と、 同氏の 小說 『當世 甞生氣 赏』 

とい ふ 作品と である。 

1 度 此の 兩 書が 現 はれてから は、 新しき 文 藝家等 は 皆 翻然と して 覺る ところ あり、, 

,てれから とい ふ もの、 舊小說 の 權威は 全く 地に 墮 ちて、 小 說界の 新しき 大道 は坦々 と 

して 砥の 如くな つたので ある。 

又 一方で は 西洋に 長 詩 ありて 我國 になき を慨 し、 外 山、 山、 矢 田部尙 今、 井上 巽 軒 

等の 諸氏が、 西 詩に 倣って 新體 詩と いふ 新しい 詩形 を 創造した" 明治 十五^ 四月に 上. 

梓され た 以上 三 氏 合著の 『新體 詩抄 I は 此の 詩の 最初の ものであった。 今日の 所謂 詩 

と稱 せられる もの は、 此の 當 時の 新體 詩の 進化した ものに 外なら ない。 

以上に 於いて 兑るも 鬼に 角 我 國文舉 の 中堅が 改革され て、 新しい 基礎の 上に 立つ や 

うにな つたの は、 明治 十五 年頃から 二十 年頃に 到る 迄の 間と いってよ からう。 

然 らば 俳句 は 何う であった かとい ふに、 俳句が 眞に 純粹の 文舉的 立場から 鑑赏 され 

子規と その 時代 S 



ぶ 趴文藝 としての 地位 を 明らかに GI 覺し たもの は, 子規の 『^蕪 雜談』 が 出てから であ 

る。 此の 『苡蕉 雜談』 は 小 說界に 於け る 近: 逸-氏の 『小說 祌髓』 とよく 比 されて ゐる 

が、 新文藝 樹立の 意味に 於いて、 全くニ^!<?が同じ立場にぁるものとぃってょぃ。 けれ 

ども 『小說 祌髓』 の 生れた の は、 前に もい つた 如く 明治 十八 年で あるに も拘ら す、 in 巴 

蕉 雜談』 の 現れた の は、 明治 二十 六 年で ある。 卽ち 後者が 前者に 後る」 こと 殆んど 十 

年に 近い。 我 國の文 擅 進展の 速度から 言って、 十 i!f といへば 可也 其 に 遠い 隔 りが あ 

る。 それで あるのに 俳句 は 何故 一般の 文 擅から 十 年 も 遲れて 初めて 自覺 した か、 是れ 

は 仲々 興味 ある 問題で なければ ならない。 然 らば 其 を * 俳句 界は 何麼狀 態に あった 

か、 私 はこれ から 先づ 前 きに 少し 述べようと 思 ふ。 

連歌から 出た 俳諧 は宗鑑 貞德等 を經て 芭蕉と なり、 初めて 獨 立した 立派な 藝術 とな 

つた 事 は、 皆 人の 知る ところで ある。 蒸 は 啻に 俳句と いふ 一 形式の 創迭 者と しての 

みで はなく、 廣ぃ 意味に 於け る 純藝術 家と しても 4 越した 人で、 俳諧 史上 特 来すべき 



である。 けれども 北ハ 後一: 儿 祿 時代 去りて * 享保 時代に 至れば * 俳壇 は 漸く 墮落 しかけて * 

又 純 藝術的 自覺を もって 句作す る 者が 無くなった。 其 後天 明に 入って 蕪 村と いふ 芭焦 

にも 劣らざる、 或る 意 W に 於いて 芭蕉 以上と も 言へ る 天才が 出て * 藝術 としての 俳 

句の 中興 を 企てた" けれども 天明 以後の 俳人 は 多く、 蕪 村の 眞價 を鑑 (A する こと を 知 

ら ない。 WJ 蕉を 唯一 の 標的と して 崇拜 して ゐる。 併し 芭蕉の 眞價を 知らないで、 一 § 

の 最も 缺點 ある 方面 を 賞し、 或は 芭蕉 を 自分 等の 分る 範圍で 自分 等の 都合の い i やう 

に 曲解して ゐ ると いふ 有様で ある。 

明治に 入っても 此の 雜は 更ら ない。 天 保 時代に 芭蕉 を 曲解す る ことに 依って 墮. 洛し 

た 蒼 虬ゃ梅 室 は 極めて 非藝 的な 例の 所謂 月並 調 を 天下に 廣め たので あるが、 其の 影響 

が、 明治時代 となって 益々 K しくな つたと も 言へ る。 

籃の目 を もらぬ 許り ぞ初 茄子 梅 窒 

名月 や 木に 劣る 人の 影 同 

チ規 とその 代 * 



などい ふ 句 を 作つ た 俳人の 普及せ しめた 俳句から、 

名月 や 流石に 雲 も 捨てられす 永 機 

つ- 驚いて それから 鴨と 知りに けり IS: 雄 

さト なき は 先 づ衔檀 の 二葉 哉 . 

の 如き シ ンセリ ティの 無い 技巧的な 俳句の 生れる の も、 必す しも 偶然で はない 。此ぅ 

した 傾向の 中で、 右の 外 其 角 堂 機 一、 雪中 庵 雀 志、 花の 本聽 秋、 夜 雪 庵 金 羅 など は 牛 

耳 を 執って ゐ たので ある。 彼等 は 俳句が 藝術 であるか どうか、 藝 術と は何麼 もの か.、. 

俳句 は 何 を 詠むべき もの か、 など \ い ふこと は 少しも 知らない。 否 さう した もの を考 

へても 兑た ことがあるまい。 

それよりも 驚く 可き こと は、 彼等の 生活で ある。 彼等と いっても おに 擧 げた 人々 の 

外に 俳諧の 指導者 乃至 敎師 として 所謂 宗匠と 名のる もの は、 全 國に數 人 あり、 更に 

それらの 門に 出入して 句^す る もの は. 殆ん ど數萬 —— これ は 全く 誇張で も 何でもな 



い 11 に 及ぶ とい ふこと であった。 彼等の 中の 宗匠た る もの は、 最も 卑賤な 方法に よ 

る 一種の 職樂 として 俳句 を 弄んで ゐた。 卽ち 賭博に 近き 點 取りの 方法に よって 門下の 

俳人 等 を 欺いたり、 不當の 入 花なる もの を 取ったり、 或は 權 門 に 伺候し 富豪に 出入し 

以 つて lie 間の 眞似 をしたり、 殆ん ど藝術 家と して ある まじき 事の みを爲 して 生活して 

ゐ たので ある。 叉 それら 宗匠の 門に 出入す る 俳人 は 如何なる も のぞと いべば、 『金 持の 

隱居、 町內の 口き き * 卑賤の 藝人、 無學の 百姓、 ひまな 代言 * 不用な 役人』. 等の 如き 

は 多く、 彼等 は 俳句 を 作る こと を、 『床屋の 將秦 盤、 離れ座敷の 花 骨牌と 同種類、』 の も 

のと 考 へて ゐ たので ある。 彼等 は 全く 一種の 消閑 遊樂の 具と しか 見て ゐ なかった。 斯 

うした 俳人が 日本 全^ 到る 處に 散在して ゐた。 子規 は 之に 就いて 言 ふて ゐる。 

『發句 俳諧の 類總 てこれ 文擧 たるに 相違な くんば 日本 文擧の 過半 は 俳諧の 爲に 占領せ 

られ たり。 俳人 宗匠の 類總 てこれ 文學 者た るに 相 遠な くんば、 口 本人 口の 千分の 一. 

は卽ち 呰文舉 者と 稱 すべき ものな り。 嗚呼 何ぞ 俳諧の 盛に して 俳人の 多き や。 …… 

?f 現と その 時 K 九 



數 萬の 人が 月に 一 句づ 、を 作る と假定 すれば I ケドに 數十萬 句 を 生すべく、 十 年に 數 

;:: 萬 句 百年に 數千萬 句 を 生す るに 至るべく * 其 中には 千 萬の 名句の 現 はれ 出づ ると 

共に、 俳句 は 早く 詠み 盡 さるべき 害なる に、 今 U に 於て 其 割合に 名句 も少 く、 はた 

俳句の 盡 きたりと も覺 えぬ は、 これ 其 人が 文 舉應用 者に して 純粹 の文學 者に 非 ざれ 

ばな り。 純 粹の文 學者は 三百 年 問 を 通計して 猶數 W 人に 過ぎねば、 平均 I 年に I 人 

か 一 一人の 割合なる べきに、 拉も マの 宗匠の 夥し さよ。』 

斯うした 墮 落の 下に、 明治の 俳壇なる もの は * 實に 明治の 半ば過ぎ • 卽ち 二十 四 五 

^頃 迄:?? いて ゐ たので ある。 滔々 として 入り 來る 歐洲の 文化 も、 思想 も、 彼等の 阅內 

をば 浸潤す る ことがなかった。 



第二 章 子規の 事業 

然 らば その 押 寄せ 来る 歐洲 文明 思潮 も 何故、 此の 俳壇の 圈內に は 及ばなかった か。 

前に も 言った 如く、 小說を 中心とする 我が 國 文壇の 中堅 は * 明治 十五 六 年から 七 八 年 

迄に は、 旣に 改革者が 出で \、 新しい 改革の 火の手 を擧げ て、 著々 と 文攀的 基礎 を 

^めて 行く やうに なった にも 拘ら す、 俳句 だけ は 何故 それから 十 年も墮 落した ままで 

救 はれす に來 たか。 

併しよ く 此の 問の 事^ を觀 察する 時には、 そは必 すし も理. H の 無い ことで はない。. 

第 一 我 國の新 文明の 建設 は、 凡て 歐洲の それから 根 據を探 用して 爲 された ものである。 

政治で も敎 育で も 行政で も皆然 りで ある。 文藝 にあっても 彼の 『小說 神髓』 は 勿論 歐 

洲の 組織的な 文 藝論を 基礎に して 出來 上った ところの 文藝の 原理と 創作の 方法と を 論 

じた ものである。 

子 斑の 事業 II 



新體 詩と いふ- Iln^ なる 詩形の 創造 も歐洲 例へば 英語の 所謂 ボ H ト リイと いふ 名に 依 

つて 示さる、 詩形に なぞらへ たもので ある。 斯く當 時の 新しき 文藝 は、 凡て 西 歐のそ 

れを 標的と して 生れた ものである。 けれども 俳句 は 極めて 短詩 形であって、 これに 類 

する もの は 西欧に は 見當ら ない。, 從 つて 俳句に 採って 以 つて 移すべき 彼方の 基礎的 原 

现が 無い。 唯 西欧の 一 般藝術 論と 我が 俳句と 接する 丈け である。 それ とても 俳句が 藝 

術と しての 一般; 现に迄 引き上げられた 一 點に 止まって、 俳句と いふ 特殊な 短詩 形に 

對 する 特殊な 研究と いふ ものが 歐洲に はない。 

第 一 一に は 日本の 文藝家 は先づ 文壇の 中堅た る小說 及び 新體 詩の 改革 及び 創造に 急が. 

しくて 俳句と いふが 如き 小 詩形に 手 を觸る \ 暇 は 無かった こと、 叉 は 俳句の 如き は 文 

學 として 存在すべく 餘 りに 小さい もので、 改革すべき 價 ig の 無い ものと して 拾て.. -顿 

みなかった ことで ある。 一 方に 於いて i« 俳人 等 は無舉 無自覺 にして 藝術 としての 俳句 

を 理解す る ものが 無かった ので ある。 



第三 は 明治 I 一十 年頃 迄 は歐化 主義が 盛んであって、 日本 在来の ものと い へ ば 如何な 

る もの も 排斥し、 西洋の ものと い へば 如何なる もの も崇拜 するとい ふ 風潮に re 倒され 

て、 俳句と いふ 日本 獨特の 詩形が 新しく 社會に 打って出る 機會が 無かった ことで ある: „ 

やがて 國粹 保^主義、 反歐化 主義の 思想が 生れて 初めて 和歌と 共に • 俳句が 注目 さる 

る やうに なった ので ある。 

以上の 外に 俳句が 永く 改革され ないで 殘 されて 來た 原因 は 未だい くら も あるに は 相 

逮な いが、 大體 から 見て 先づ 右の 如き は、 其 中で 最も 大きな 理. S であらう と 思 ふ。 

斯うした 事情の 中に、 明治 二十 六 年、 『日本 新聞』 に 正 岡 子規の 『芭蕉 雜談』 が曉鐘 

の 如く 現れた。 國粹 保存 主義の 思潮が 漸く 天下に 普 からん とする 際であった から、 世 

の 人々 は 一 齊に 俳句と いふ もの、 而 して 子規の 俳句 論に 目 を 注ぎ 出した ので ある。 こ 

れ より 子規 はいよ/ \ 俳:? 革新、 卽ち舊 き 俳句 を 撲滅 破壞 して 新しき 俳句の 建 に 著 

著と 歩 を 進めて 行った ので ある。 而して子規其人を^|„?へて見るに、 彼 は 此の 辜 業 を 企 

チ SS の 菜 Is 



てるに は * 最も 適 當な资 格 を 具へ てゐ たやう に 思 はれる。 卽ち彼 は 第一 に文攀 として 

の 俳句、 言ひ換 へれば 俳句の 基礎的 方面 を 研究す る こと を 怠らなかった ので、 それに 

對 する 知識 を 十分 持って ゐ たので ある。 彼 は歐洲 文藝に 明るい ほどではなかった 迄 も 

歐洲文 藝の原 现に關 する 大體の 知識 だけ は、 持って ゐ たらしい ので ある。 彼が 藝術論 

は 細部の 議論に なると、 不徹底な ところ も 可也あった けれども、 全體の 志向 は 誤らな 

かった やうで ある。 これが 彼の 事業の 中で 最も 原動力と なった ところの ものである。 

斯うした 見識 を 持った 人が 出な か つ たから、 俳句 は い つ 迄 も 改革され なか つたので あ 

る J 

それから 彼 は 古 俳句 及び 其の 變. 進に 關 する 知識 をお り 餘る程 十分に 持って ゐ たこと 

である。 彼が 大舉^ 代に 俳句 分類 を 企て- -、 俳句に 關 する 研究 を 積んだ のが、 後年 彼 

が 俳句 革新の 事 紫に、 何の 位ゐ 役に立つ たか 知れない。 彼 は I 方に 於いて は藝 術と し 

ての 俳句の 原 现を硏^_凡す る と 共 に、 それ を 以て 他方に あつ て 過去の 俳句の 俥統を ら 



し 見る とい ふ舊 俳人 等に は 迎も足 許に も 寄り 附 けない ことが 爲し 得た ので ある。 

斯くて 彼 は i^rl 俳人の 生活 を 全然 Kc おする と共に、 彼等の 俳句が、 純藝術 論の 光りに 

照し: て、 皆 理窟の 行列で あり、 陳腐の 化物で ある こと を觀 破し、 聲を大 にして それ 

らを 排斥した ので ある。 ^度往 きに 坪內 逍遙 氏が 『小說 神髓』 に 於いて 馬 琴 流の 敎訓 

小說を 『仁義 八 行の 化物』 として 排斥し、 藝術 は專ら 寫實に 依らざる ベから ざる 事 を 

高調した やうに、 彼 子規 は 萬 俳句の 理窟と 陳腐と を排 して、 俳句 は專 ら純眞 なる 寫生 

に 依らざる ベから ざる こと を 主張した ので ある。 >^ 規が嘗 つて 坪內 氏の 『小說 神髓』 

を讀ん で、 且つ 驚き • 且つ 悟る ところが あつたと、 自ら 『天 王 寺 畔の鍋 牛盧』 に 於い 

て吿 白して ゐ るの は、 最も 與味 ある 事で ある。 

彼は舊 俳句 破壞の 運動に 極力 努力した と共に、 • 一 方に 於いて は、 俳句 を 小 詩形と し 

て、 文學 として 取る に 足ら ぬ^と 賤 しめて 敢 へて 顧なかった 一 般 文壇の 常識 を 打破し * 

以 つて 文壇 的 地位 を 纏 得せん ことに、 何の 位ゐ 奮闘した か 知れない。 『松蘿 玉 液』 を 見 

子 a の Itw P 1 五 



ると 是れが 隨處に 見出される であらう。 「俳句 批評 は 俳句 を 知らざる 文擧 速屮の 筆に 

も 上りぬ。 而 して 多く は 俳句 攻擊 の聲 なり。 俳句 は複雜 なる 思想 を 現す 能 はす、 故ぶ 

吾れ 俳句に 與せ すと 言 ふ は 可な り。 若し 俳句 は複雜 なる 思想 を 現す 能 はす、 故に 下等 

なる 文舉 なりと 言 はんと 欲せば、 先 づ複雜 なる 3^ 想は簡 なる 思想よりも 高等な りと 

いふ こと を證 明せ ざる 可ら す。 然れ ども 何人もし か 明言し 能 はざる べし。 何と なれば 

短篇 時に 長篇に 勝り、 複雜 なる 小說 或は 簡單 なる 小說に 劣る は、 ー賓 際に 於て 誰も 見と 

めざる を 得ざる 所なる ベければ なり。 若し 又 複雑なる 者 は 如何なる 場合に 於ても 簡単 

なる に 勝れり とい ふ 奇人 あらば、 吾 は 其 人 を 如何と もす る 能 はざる なり。 或る 詩人が 

如何なる 小 說をも 排斥して 之 を 野卑な りと 言 へ るが 如き これと 正 反對の 例に 屬す。 

如何と もす ベから す。 …… 俳句の 趣味 は 其の 簡單 なる 處 にあり、 簡 S せ を 拾て.^ 複雜 

就けよ とい ふ 者 は、 終に 其簡 の 趣味 を 解せ ざるの 言の み。 落語家 曰く、 大は小 を 索 

ぬると いへ ども、 ^子 は 耳搔の 代り を爲 さすと」 の 如き 言 は、 其の 一例で ある々 斯く 



て 彼 は 俳句 をして 文壇の 一 角に 確 S たる 地位 を 占めし むる に 至った ので ある * 而 して 

墮 落せる 舊 俳句 を 一 掃し、 俳句 を 新しき 純 文學の 基礎の 上に 打据 ゑた ところの 大事 業 

を 成し遂げ たので ある。 

此の 事業 は 勿論 子規 I 人の 努力に 依って 完成した もので ない。 子規の 周圍に 集った 

彼の 俳友 乃至 門下生の 力 も 加って ゐれ ば、 子規 派の 外に、 紅葉 I 派の 努力 も認 むべき 

である。 けれども それら は 子規の 活動がなかったならば、 迚も 成功す る ことが 出來な 

かった こと は 火を睹 るよりも 明かで ある。 されば 明治 文壇に 於け る 子規の 地位 は、 恰 

度 小說を 改革した 坪內 逍遙 氏、 和歌 を 改革した 落 合 直 文 氏 等と 等しく する ものと いつ 

ても敢 へて 過褒で はないで あらう。 

子規の 活動 は獨り 俳句 界 許りで はなく、 和歌、 新體 詩、 寫生文 等の 方面に 迄爲 され 

たが、 これら は晚 年からの 活動であった 爲 めか、 未だ 十分 成 菜 を擧げ 得なかった ので 

ある。 從 つて それらの こと は 、鼓に は 特に 論じないで 置く。 

チ 現の 事 菜 1 七 



第三 章 子規と は 如何なる 人ぞ 

一、 松 山 時代 

然 らば 子規と は 如何なる 人ぞ、 如何なる 家に 生れ、 如何なる 境遇に 育ち、 如何なる 

敎肓を 受け、 而 して 如何なる 生活 を爲 せし 人ぞ。 私 は 子規の 事業 を 細かに 叙述し、 委 

しく 批評す る 前に、 先づ 彼の 人と 爲りを 僅か 許りの 材料 を土臺 にして 簡單に 記述し 度 

いと 思 ふ。 

漢文く づし 流に 書き出せば、 胃 頭 には子 規諱は 常規、 通稱を 升と 呼 ^6、 又の名 は處 

之 助、 子規 は 其號、 別に 獺祭 書屋 主人、 竹の 里人と もい ふ 一 I とで も !!曰 くと ころで あ 

らう。 生れた の は慶應 三年 九月 十七 日で、 場所 は 伊豫の 松 山で ある。 柳 原 極 堂 氏の 記 

すと ころに 據れ ば、 氏の 家 は 『松 山巿を 貫通す る 中の 川の 淸 冽な 流れに 沿うて、 老撄 

が雜 越しに 幹 を 川に 突き出して 居る』 …… 『其 西 隣が 君の 爲 めに は 祖父に 當る 儒者 大 



觀山 翁の 邸であった …… 』 とい ふ。 子規の 父 は;^ が 幼少の 折 職 充血 か 何 かで 殁 してし 

まった ので、 母と 妹と 都合 三人で 其 家に 生活して ゐた。 父と いふの は 果して 何麼 人で 

あつたか、 それ を 確かめる にも、 想像す るに も 一寸 材料が 無い。 彼の 母 は 極めて 善良 

な, そして 温順な 性質であった。 之に 就いては 子規の 親友 五百木 飄亭氏 は 斯うい うて 

ゐる。 『彼れ が 勇猛な 意氣、 剛健な 氣魄 の、 母より して 韆 承され 若く ば 養育され たもの 

とは覺 えぬ ので ある。 然り 我輩 は 彼れ の 如き 偉材の 如何にして 爾 かく 發 育し 來り しか 

に 就いて、 今尙 一 の 疑問 を 抱いて ゐる。 唯 彼の 祖父 大原觀 山 翁 は、 我 舊松山 藩 下に 於 

ける 儒お として 上下の 尊敬 を 受けて 居た ので、 彼れ は 幼時 多くの 感化 を 此の 翁から 受 

けたに 違 ひない。』 

彼 は 鬼に 角 斯うした 母の 手 一 つで 育てられ、 傍ら 觀 山と かいふ 祖父の 感化 をう けつ 

つ 幼年時代 を 過して 來 たので あらう。 彼の 家 は 侍の 家であった から、 母の 手 丈け で 育 

てられて 來 たにしても、 殿 格な 敎育を ほどこされ たに 違 ひ 無い。 叉 白 耳義の 公使な ど 

子 現と は 如何なる 人お 一九 



をした ことがある 拓川加 藤 恒忠氏 は 彼の 叔父に 當 つて ゐ るが、 此人は 陸與南 氏な どと 

共 に 文學的 才能 の豐 かな 人で あると いはれ てゐ る。 それから 現に 宗敎 家と な つて ゐる. 

三 並 良 氏 は 氏の 從 弟に 當る。 又 氏より 四 五 歳 若い が、 藤 野 古白と いふ 從笫も 亦 俳人で 

あった。 (此人 は 彼よりも 早く 亡くなつ たので ある)。 鬼に 角 彼の ! 族に は 文擧其 他の 精 

祌的 方面に 關 係した 入が 可也 多い のを以 つて 見れば、 彼 も 文學的 方面に 發展 して 行つ 

たの は 決して 偶然で はない と 思 はれる。 

さて 彼が 幼年時代 は 何う いふ 性質で、 何麼 子供で あつたか。 之れ に關 して 彼の 母が 

談- つて ゐる處 は、 最もよ く 彼の 當 時の 面影 を傳 へる ものである。 されば 暫く 其の 談話 

筆記 を兹に 少し 借りる ことにす るつ 『赤 ン坊の 時 は、 そり や 丸い 顏 でく * よっぽど 

苦しい 顔で 御座いました。 鼻が 低い く 妙な 顔で、 ようま ァ此頃 (臨終の 頃の 事) の や 

うに 高くな つた もの ぢ やと 思 ひます。 十八 位から やうく 人並の 顏 になった ので、 ^ 

ん とうに 見苦しう 御座いました。 大人に なって あれ 程 顏の變 つた 者 もあります まい。 . 



六つ 位から もう 髢を結 ひました …… 髭 を 結うた なり 三 並 (良 氏の 事) のと 二人で 小舉 

校 (法 龍 寺內) へ 通 ひました が、 たった 二人ぎ りが 髭 を 結うて 居る ので 大變 いやがり ま 

した。 上下 着の 時には (五 歳の 十一月 十五 日) 金 巾の 紋附を こしら へて、 上下 は 佐 伯の 

久 さんの を 譲って 貰うて、 大小 は大 原の 元の を 貰うて さし ましたが、 何様 脊が 低い の 

で、 大小に つるされ てる や うぢ やと 笑 はれました。 脊が 低かった の は餘程 低かった と 

見えて、 大 原の 祖父が、 朝 暗い うちに 門に 出で 居って、 何 か 知らん 小さな ものが 向う 

から 來 ると 思 ふと、 それが 升 (子規の 事) ぢ やった などと 話 をよ くして 居りました。 

小さい 時分に はよ つぼ ど へ ぼで く 弱虫で 御座いました。 松 山で 始めて お 能が 御座 

ゐ ました 時に、 お 能の 鼓 や 太鼓の 音に ぉぢ て. (- とうく 歸 りましたら、 大 原の 祖父 

に 武士の 家に 生れて お 能の 拍子 位に ぉぢ ると 叱られました。 近所の 子供と 喧嘩 をす る 

やうな 事 はちつ とも 御座いま せんので、 組の 者な どに いぢ めら れても 逃げて 11^ ります 

ので、 妹の 方が 石 を 投げたり して 兄の 敵 打 をす る やうで、 それ はへ ボで 御座います。 

子規と は 如何, * .0 人お 二 1 



小舉 校へ 行く 前に、 祖父の 處へ素 讀に參 ります が、 朝 t= いうちに 起します から、 屮々 

起きません ので、 毎朝々々 蜜柑 やお 菓子 を 手に 持た して 目 を さまさせます。 さう せん 

と 起きません のよ。 龃父は 大變升 を 可愛がりまして、 升 はなん ぼたんと 敎 へて やって 

も覺 える けれ, 敎 へて やる のが 樂みぢ やというて 居ました。 

物言 ひを覺 える のが、 よつ ぼど遲 うて、 三つの 時に も、 『ハル』 とい ふ 下女 を 呼ぶ の 

に 『アブ/ \』 というて 呼んで 居りました。 物言 ひば かり か、 手 もよ つぼ ど 鈍で、 紙 蔦 

もえ、 あげす、 獨樂 もえ \ ま はしませんでした。 何でもす きな ものと 一一 一一: ふと、 南瓜と 

西瓜と が 出よ つたて い。 髮を 切って 後 も 小さい 刀 を さして 居り ましたが、 餘戶の 祭り 

で 田 <1.:1 へ 行きました 時、 誰かが 拔 いて いくとい うた けれども 拔 けません の を • 陰 

へ 廻って 裏 Q 畑へ 出て R 分で どうやら かう やら 拔き ましたら、 手を切り ましてな * そ 

れで うちへ は歸れ ない とい ふので、 シクく 泣いて 居った こと も ありました。 

小舉 校に 影 浦 先生と いふの が ありまし たが • そこへ 本 を 習 ひに 三 並の 從: sf- と 一緒!^ 



行きより ましたが、 夜が 遲 くなる と、 ; 等が 迎 ひに 行きより ました。 先生の 處 では 本 

を讀ん でもら ひます より、 話 をして きかして 貰 ふの が 好きで、 それで 遲 くなる ので 御 

座い ました。 大方 八 犬傳ゃ 何ぞの 話で 御座いませう。 又 或 時 丁度 米 藤 (大きな 吳服 店) 

の 群の 上から 下女が 顔 を 出して 居た のを晝 見た とい ふので、 歸 りに それ を 恐 はがり ま 

した。 大街 道の 軍談 (講談) を 聞きに 行きより ましたが …… 何でも 一 錢の木 戶錢が 少し 

遲く 行く と 八 厘です むと かいひ ますので 御座いま したが、 後に それが わかって 大 £A 叶 

られ ました。 

宇 は 山 內偉藏 さんと いふ 人の 處へ 一 年 も 習 ひに 行き ましが、 刹 紙へ 物を蚩 曰く ことが 

大好きで、 昔から 半紙 はよ く 使 ひました。 松 山の 立 花 神社と いふ 天神 様へ …… 大文字 

というて 大きな 字を淸 書して あげる と 手が あがる とい ふので、 持って行きよ りました 

が. 升 は廚紙 ゃ畫妻 紙な ど へ 一 1 三人の よせ 書き をして 大きな くもの を こしら へ て、 

松の木の 枝な どへ 吊るの を樂 みに して 居りました。 七夕の 短冊な ども 妹と 紙が 多 いぢ 

fi> 親と は 如何なる 人 ぞ 11111 



やの 少 いぢ やの いうて、 好き このんで 書きました。』 

以上の 談話 を 見る と、 子規の 幼年時代が、 あり/、 と 眼に 浮ぶ やうな 氣 がする では 

ないか。 意志が 弱くて 不器用で、 而も 讀み 書きが 好な 子供の 面影が はっきり 想像す る 

ことが 出来る。 斯くて 小學 校に 通學 して ゐた彼 は 明治 十二 年卽ち 十三 歳の 時、 それ を 

卒業す ると 共に、 直ちに 松 山中 舉 校に 入 學 した。 中學 時代に は 漸く 文學 趣味が 發 達し 

て來 た。 けれども 未だ 俳句 はやらなかった らしい。 主として 漢舉ゃ 漢詩な どに 凝って 

ゐた 一 方、 馬 琴 物 や 水 滸傳、 武王 軍談、 三 固志 等 を 頻りに 耽讀 したと いふ こと を 自ら 

談 つて ゐる。 又 當時擧 生 間に 演說が 非常に 流行して、 彼 も 亦 其の 仲 1? 入り をした。 殊 

に當時 は政黨 の勃與 時代で 一般に 政治 熱が 盛んであった ので、 彼等の 演說も それらに 

感化され て 政治問題 など を 露骨に 論じた ので ある。 それが ともす ると 縣廳 などに きこ 

える らしく, 校長から 嚴 しい 訓戒 を 受ける とい ふ 有様であった。 彼が 如何に 理智 的な 

性^^の人でぁったとはぃひ乍ら、 活氣 横溢した 少年 時代であった から、 自然 華やかな 



さう した 方面に 傾いて 行った の は、 當然 でなければ ならない。 

さて 此の 屮舉校 は 卒業し なかった。 卽ち 明治 十六 年 彼が 十七 歳の 初夏の 頃、 中途 退 

舉 して 遂 ひに 笈を 負うて 東京に 遊學 したので ある。 遊擧の 事に 就いて • 彼の 母 は 斯う 

談 つて ゐる。 『屮舉 校に 行きより ます 中に、 東京へ 出たがって くや かまし ういうて 居 

りました が、 加 藤の 弟 (恒忠 氏の 事) から、 西洋へ 行く 前に 來 いというて 來 ましたので 

飛 上って 喜んで、 丁度 大 原の 叔父 は 留守で 御座いま したから、 伎 伯の 叔父の 處へ 飛で 

往 つて …… 來 いとい ふ 手紙の 來た翌 々日 松 山 を 出立し ました。 單衣物 を 一 枚 こしら へ 

ると いふので、 夜通し 縫うた 事な どを覺 えて 居ります。』 

一一、 東京 遊學 時代 

初めて 東京へ 出て 來た 子規 は、 果して 何の 方面に 向 ふつ もりであった らう。 何を舉 

び何麼 人となり、 何を爲 さんと したで あらう。 それ を 叙述す る 前に、 先づ 東京へ 來た 

子規と は 如何な ろ 人 ぞ M 



て の 彼の 面影 をし の ぶに 適 當な故 睦 羯南 氏の 文章の _ 節 を 引いて 來て兒 よう。 『友人 加 

藤 妬 川が 或 日予の 寓居に 來て色 々 話した 中に、 「此ご ろ國 元から 甥の ャ ッが 突然 やって 

來 たが、 まだ ホンの 小儈で 何の 目當も 無く、 何に しに 來た のかと 聞いたら、 學問 しに 

來 たと 云うて る、 僕 も 近々 往 くの だし (佛蘭 西に)、 世話 も 監督 も 出 來るぢ や 無し、 い 

づれ 同鄕の 人に 賴ん で往 くの ぢ やが、 君の 處へ も往 けと 云って 置いた が * 來 たらよ ろ 

しく 逢って くれ 玉へ」 との 話 もあった、 二三 日た つて やって 來 たの は 十五 六の 少年が 

浴衣 一 枚に 木綿の 兵 兒帶、 いかにも 舍 から 出た ての 書生 ッコ であった が、 何處 かに 

無頓着な 様子が あって、 加 藤の 叔父が 往 けと 云 ひます から 來 ましたと 云って 外に 何に 

も 言 はぬ。 ハァ加 藤 君から 話が ありました、 是 から 折々 遊びに お出なさい、 私の 宅に 

も 丁度 あなた 位の $w 生が 居ます からお 引合せいた しませう と 云って 予の甥 を 引合 はし 

た * やがて 段々 話す る 様子 を 見る と、 言楚の はし, <\ に餘程 大人 じみた 所が ある、 對 

手に なって 居る 者 は 同じ 位の^ 齢で も、 傍から 兒 ると 丸で 比較に ならぬ、』 こ. d を 請む 



と * 彼が^3{京へ來たてひ面影の 一 端 を 想像す る ことが 出来よう。 

束 京へ 来てから、 彼 は哲擧 者に ならう と考 へて 居たら しく、 それに 就いては 彼 自身 

も 明らかに 談 つて ゐる。 上京した 明治 十六 年に は 赤 坂漢擧 塾に 入った リ、 共立 學校 (今 

の 開 成 中學) に 1! じたり した。 此の頃 は 先づ大 學豫備 門受驗 準備 時代と でもい うてよ 

いで あらう。 彼 は餘り 英語が 得意でなかった らしく、 高 橋是淸 氏の パ ー レ ー の 萬國史 

や 坪 內雄藏 氏の ュ _1 ォ ン讀 本な どは敎 はりに は敎 はった けれども、 よく わからな かつ 

たといって ゐる。 此の 共立 舉 校の 第二 級の 時に、 場馴れの 爲 めに 試驗 (大 舉豫備 門の) 

を 受けようと、 同級の 友に 誘 はれて、 餘り 自信が 無い らしかった けれども、 やって 見 

た。 それ は 明治 十七 年の 九月であった。 處が 意外に も * まんまと 及第した ので、 何麼 

に 嬉しかった であらう,., 流石 試驗嫌 ひな 彼 も、 此時 許り は、 『試驗 は 屈の 如し だと 思う 

た』 と 言って ゐる。 

大^ 豫備 門に 入って から も、 英語の 力が なかく 附 かなかった らしく、 同級の 山 田 

t ri^ 親 t は 如何, なる 人ぞ r 一一 セト 



…… それでも 十 句 許り 書き並べて 居った の を > 或 人が 見て" 是非 宗匠に 見て 貰へ とい 

うて 自分に 紹介して 旲れた の は 其 戌と い ふ 宗匠で あ つ たと 言 つ てゐ る。 

此の 其 戌と いふ 俳人 ほ當時 八十 許りのお 爺さんで、 伊豫 (?) の 三津ケ 濱にゐ たので 

ある。 而 して 梅 室 門下の 人な さう で。 後年の 子規に 言 はせ ると、 月並の 月並の 大 月並 

であった。 けれども 當 時の 子規 は、 未だ 月並 も 何も わからなかった ので ある。 何でも 

十九 年の 夏歸 省した 時に、 柳 原 極 堂 氏と 打 連れて 此人を 訪問し、 袂 から 十;^ 句の 俳句 

の 草稿 を 取り出して、 其の 選評 を 請うた。 而も 其 戌 宗匠 は 其 時に 彼の 句 を賞讃 したと 

いふ ことで ある、 此 頃から 彼 は 熱心に 句作に 耽る やうに なった。 

明治 二十 年の 事で ある。 松 山 藩主た る久松 家で は、 同 鄕の舉 生の 爲 めに、 本 鄕眞砂 

町 十八番 地に 常盤會 寄宿 舍と. いふ もの を 設けて、 寧 生 を收容 監督す る ことにな つた。 

これ は 藤 野 古白 氏の 伯父 服 部 喜陳氏 (此人 は 今の 服 部嘉香 氏の 父君で あらう と 想像す 

る) や 內藤鳴 雪 氏な ども 監督と なった ことがあ ると いふ。 正 岡 子規 は 此の 寄宿 舍が創 

子規と は 如何な ろ人ぞ 一一 九 



立され ると 共に、 此處に 入って 數年 居った ので ある。 子規が 周圍を 感化した のか, 周 

圍が 子規と 期せす して j 緖 になった のか、 それ はよ くわから なかった けれども 、鬼に 角 

同宿の 學生 等と 共に 盛んに 俳句 を 作った。 此の 中には 五百木 飆亭 * 竹 村 黄 塔 (此人 は 

碧 梧桐 氏の 兄 君で ある)、 などの 諸氏 もゐ た。 併し乍ら 子規 は 俳句 許り 作った のかと い 

ふに * さう ではない。 非 風、 飄亭 などと 共に、 紅葉 會と いふ もの を 組織して、 俳句の 

外に、 戯文、 漢詩、 都々 逸な ども 作ったり したと いふ こと だ。 而 して 毎月 『言 志集』 と 

いふ 冊子 を 出して、 一年 許り 績 けた。 

此の頃から * 彼の 健康 は 少し宛 悪くな つて 來た。 素と く 身 體が虛 弱で、 或は コ レ 

ラ にか \ つたり、 BS 腸 病 を 煩ったり した ことがあった。 だから 極 堂 氏の 記す ところに 

よると、 彼 はいつ も フランネルの シャツ を 衣服の 下に 重ねて 着て、 炎天の 時で も脫が 

なかった とい ふ。 二十 二 年の 三月 末に 腦病 にか i つて、 房總 地方から 水戶 にかけ て 行 

脚した。 次いで 同年 五 H に は遂ひ ^51 肺^の ために 咯 血した ので ある。 これが 彼が 肺病 



に 犯された そ もく の 初めであった。 腦病も 全然 快復した ので はない。 試驗 などが 來 

ると ます. /(\腦 を 痛める やうに なった。 

此の頃の 出来事と して 一 寸 記して 置き 度い こと は、 彼が 雅號の 事で ある。 是れ迄 は 

盜化、 盜花、 花盜 ん、. k ル爾生 * 沐猴 冠者、 虚無 子、 放浪 子、 馬 骨 生、 痴夢 情史、 蕪 翠* 

丈 鬼、 うかれ だるま、 うす むらさき、 浮世 夢 之 助、 花 風 病 主人、 浮世 女 之 助、 西 子等 

いろくの 多くの 稚號ゃ 刖號ゃ 戯名を 用 ひたが、 此の頃から 子規と 改めた ので ある。 

これに 就いては 彼の 親友 大谷是 { 仝 氏 は 斯うい うて ゐる、 『其 降號の 話が 出て、 僕 は 肺病 

つ! -eM- つね «- . 1 

で 血 を 叶: くから、 規を 改めて 常.^ とせう かとい ふから、 寧ろ 都 子規と レては 如何と 

いうて 笑った 事が ある。 兎に角 其 前後から 用ゐ たやう に覺 えて ゐ る。』 

さて 明治 二十 三^、 彼が 二十 四 歳の 時、 高等 中擧校 (此時 は 火 擧豫備 門が 斯う 改稱 

されて ゐた) を 卒業す る や、 九月 東京 文科 大擧 の國 文科に 入學 した" 大學に 入って か 

らも、 俳句 は 盛んに やった けれども、 I 方に 於いて 野球な どと いふ 運動 も 盛んに やり 

子 現と は W 何なる 人お e* 



出す やうに なった。 常 盤會 寄宿 舍 にべ ー スボ ー ル 會を标 へて、 その 斡 事に もな つたこ 

とが ある。 然し これ は 一 時 は 熱心で あっても、 菜して 永績 きした か 何う か は 不明で あ 

る。 恐らく は 健康 や 其 他の 事情で 數 年なら すして 止めたら うと 想像す る。 大舉 時代に 

なつてから、 新聞記者 晬 代に かけて、 肺病の 方 はさう 急に 勢が 進んで 行く 樣子 はなく 

小康 を 保って ゐ たらしかった。 けれども 腦の方 は 時々 依然として やられる らしかった。 

『墨汁 一 滴』 を 見る と 彼 は 斯う 書いて ゐる。 『明治! 一 十四 年の 春、 哲學の 試 が あるので 

此時も 非常に 腦を 病めた。 ブッセ 先生の 哲學總 論で あつたが、 余に は 其^ 學が 少しも 

分らない。 I 例 をい ふと サブスタンスの レア リ ティ は 有る か 無い かとい ふこと がいき 

なり 書いて ある。 レア リ ティが 何の 事 だか 分らぬ に 有る か 無い か 分る 害がない。 哲學 

とい ふ もの は 此麼に 分らぬ 若なら、 余 は哲學 なんか やり 度く 無い と 思うた。』 

此の 哲學の 試験 を 準備す る爲 めに、 彼は哲 學のノ ー トと 手帳 一 冊と を携 へた ま、、 

飄然と 下 を 出て、 向島 は 木 母 寺の 境內の 或る 茶店の 一 一階 を 一 1 三日 借りて 勉强 する こ 



とに した。 けれども 哲舉 など はちつ とも 勉" si5 しない、 否しても 『何だか 霧が か、 つて 

たやう で 十分に 分らぬ。』 すると 『頭が ボ ー ッ としてし まふから、 直に 一本の 紛 筆と 一 

冊の 手帳と を 持って 散歩に 出る。 外へ 出る と 春の 末の うら X かな 1K 氣で、 櫻 は 八重 も 

散って しま ふて、 野道に はげん くが 盛りで ある。 何 か 俳句に はなるまい かと 思 ひな 

がら、 畦 道な ど を ぶら りくと 歩いて 居る 11 』 といった 工合で ある。 折角 試驗の 勉強 

に 向島へ やって 來 たのが、 俳句 を 作る に來 たこと になって しまったの である。 

其麼ェ 入口で 此 年の 試驗は 全部 受けないで 歸國 してし まった。 九月の 追試 驗を 受ける 

つもりで ある。 やがて 九月に 上京す ると、 早速 靜 かな 處 で受驗 の 準備 をしょう と、 大 

宫の公園は萬松樓とぃふ^!?屋に泊った。 併し 此處 でも 向島と 同じ やうに、 勉强 どころ 

か、 周圉の 松林 や 野 連な どが 馬鹿に 氣に 入った ので、 散歩したり、 俳句 を考 へたり 許 

りして 暮 したので ある。 餘り 愉快な もの だから、 おまけに 手紙で、 竹 村 黄 塔 氏 や 夏 目 

嫩石 氏な どい ふ 俳友 を 呼び寄せて 遊び暮した、 けれども 鬼に 角 此の 年 は 全部 殘 りの 試 

ff 現と は W 何な ろん お 311 



驗を 受けて、 及第す る ことが 出来た。 

右の やうな 次第で、 擧 校の 事な どは遂 ひに そっちの けにして、 俳句 を 研究したり、 

作ったり する 事 許り やって ゐ ると いふ 有様であった。 彼が 後年 大いに 得る ところ あつ 

た 俳句 分類に 志した のも此 時で ある。 又鄕 里から 黄 塔 氏の 弟、 碧 梧桐 氏が 上京した の 

も此 時で ある。 

翌ニ十^q.年に入って.からは、 益々 さう した 傾向が 發展 して 來た。 五月に は、 陸 錫 南 

氏に 勸 めら れて、 その 經營 すると ころの 『n! 本 新聞』 に 『かけはしの 記』 とい ふ 俳句 入り 

の 紀行文 を 寄稿した ので あるが、 これが 彼の 文壇に 足 を 踏み出した 第 一 歩であった。 

六月に は 『獺祭 瞽屋俳 話』 と 題して、 新しき 俳 論 を 『日本 新聞』 に揭 載し 初めた。 漸く 油 

が のりかけて 來 たと 兒 えて、 それに 次いで 續々 と 俳文 や 俳 論を該 新^に 發 表した。 『俳 

諧と いふ 名稱』 『連歌の 俳諧』 等が 其の 主なる ものであった。 彼が 俳句と いふ もの &眞 

諦, を 知り, 秘鰱を 握った の は, 賓に此 a: である。 俳壇 革新の 第一 聲は玆 に目覺 ましく 



あげられ たので ある。 これ 迄 は梅屋 門出 身の 其 戌 流の 俳句 所謂 月並 調の 俳句 を 作って 

得々 として ゐ たのであった けれども、 此 頃の 子規 はもう 昔の 子規で はない。 全く 新し 

い 藝術的 自覺の 上に 起った 子規で ある。 . 

さて 舉抆は 何うな つた か、 もう 彼に は 服 中學校 も舉課 もない C 彼 は 『とれ 程 俳 魔に 

魅入られたら 最ぅ 助かり やう は 無い』 といって ゐる 程で、 殆んど 舉業は 放棄した と 同 

じで ある。 二十 五 年の 擧年 試驗に は、 兎に角 受驗 した ものの、 果して 落第して しまつ 

たので ある。 彼 は 是れを 機 會に遂 ひに 大舉を 退いて しまった。 『これが 試驗 のし 1- まひ 

の^ 第の し まひ だ』 と 彼 は 言って ゐる。 退舉 する に 就いては、 いろくな 人々 から 

忠吿 やら K 對 やら をう けた けれども、 彼 は 頑として 耳を藉 さなかった。 斯くて 彼の 永 

き舉生 生活 は兹に 終り を吿 げた。 而 して 新しき 決心 を以 つて 新しき 方向に 猛然 突進す 

ベく 起った ので ある。 堕 1?^ せ る 俳壇 を救濟 する の 使命 を自覺 して 起 つたので ある。 

九月 上京し、 十バ には大 磯に 保養して 大いに 鋭 氣を貯 へ、 十一月い よ 先づ •『 日 

子 SMi は 15 何な ろ 人 ぞ , 二 i 



本 新聞社』 に 入社した。 陸 氏 は 彼に 活動 舞臺を 提供して 4. 分に 其の 欲する 手腕 を, 渡^ 

させようと したので ある。 彼が 俳壇の 革新 者と しての 活動 は此 時から 漸く 初められた 

といって よい。 

一一 一、 新聞記者 時代 

此の 新聞記者 時代と いふの は、 明治 二十 五 年 十 一 月、 卽ち氏がニ十六^!^の 『日本 新 

聞』 に 入社した 時から、 S 淸戰爭 に從 軍記 者と して 出掛け * 病 を 得て 歸 つて 來た 二十 

八 年の 秋 迄 を 指す ので ある。 此 時代 は 半ば 俳人と して、 半ば新閒記^!?として活動し 

た 時代で ある。 併し 俳 擅の 革新 は此 時代に 於いて 初められ たので あるから、 彼の 生涯 

にと つて は寶 に兒遁 がすべからざる 時期と 言 はなければ ならない。 

十 一 月に 『日本 新聞』 に 入る や * 新開 は 『俳句 調』 を 設けて、 特に 彼の 活動 を歡迎 した 

ので ある。 從って彼は新聞記^!<?とは言ひ乍ら、 專ら 俳句 欄 を 捲 任して 俳 擅の 革新 を; ni 



標 として 傲いた。 彼の 『歳晩 閑話』 とい ふ 俳 話 を 書いた の は 十二月、 此の 外 『舊 都の 秋 

光』 とか 『高 尾 紀行』 とかい ふ 紀行文 を 書いた の も、 矢張り 同じ 月で ある。 

明けて 明治 1 1 十六 に は、 俳 話 『歳旦 閑話』 を 書き、 『俳人の 奇行』 『古人 調 十一 ー體』 『春 

光秋 色』 『菊の 園 生』 等を發 表した。 叉 『文 界 八ッ當 り』 とい ふ 俳句 は 勿論の 事、 和歌、 

小說、 薪體 詩、 院本、 新閒雜 誌、 攀校、 文章 等 文壇 及び それに 關係 ある 有 ゆる 方: 向に 

向って 痛烈なる 批評 を 浴びせ かけた 文章 を揭 げたの も 此の 年の 三月であった。 それ か 

ら 彼の 有名な 『芭蕉 雜談』 を 書いた の も 此の 年の 十 I 月の 事で ある。 これ は 色蕉の 句で 

さへ あれば、 何麼句でも祌^;^なょぃものでぁって、 一 指 を だ も觸る \ ことが 出來 ない 

もの、 批評す る こと さへ 勿體 ない ものと 尊崇した 舊 派の 月並 宗匠 等の 迷信 迷妄 を 打破 

し、 芭蕉に はい、:? も ある 代り 惡ぃ句 も あり、 玉石混交して 居る とて、 眞の 芭蕉の 特 

1:^ を 顕揚した ところの 論文で ある。 これが 當時 何の 位ゐ 月並 俳人 を 驚かした かわから 

ない。 されば 新 俳壇の 展開と いふ 點 から 兑て も、 彼 自身の 事業から 云っても、 ^度 小 

チ規と は 15 何な ろ 人 ど 一一 1 七 



正 岡チ現 111 八 

說界に 於け る 『小說 神^』 の 如く" 此の 一 文 は 決して 見遁 がすべからざる ものと されて 

ゐる。 

彼 は 又 自ら 盛んに 句作す ると 共に、 全國 から 群り 集る 俳句 を 選んで は 常に 新聞に 揭 

げてゐ た。 それから 當 時の 矢 签 しかった 政治問題 や 社會の 現象 を 諷刺した 俳句 をよ く 

作つ _て發 表した。 これ は 果して 彼の 眞 意から 出た もの か、 或は 新聞記者 としての 彼に 

對 する 社の 註文に 依った もの か、 其邊 はよ くわから ない。 けれども 19^ に 角 此の方 面に 

於いても • 中々 活動した。 例へば 議會の 紛援を 諷して は、 

子 をな ぶり 14, に なぶられて 冬 り 

と 篤り、 政治 論に 依って 新開の 發行 停止 を 喰 ふと、 

君が代 も 二百十日 は 荒れに けり 

と 皮肉った。 議< ^が 解散せられ やうと すると、 

切り捨て k 心 しづ めん 糸柳 



とい ひ、 議會に 於いて 政府 委員が * 軍艦 を 佛國へ 註文し ない こと を 言明した に對 して 

は、 一 

此度は 烦に縫 はせ じ 角 頭巾 

と 諷したり した。 此の 時事問題 を 鼠 刺した 俳.? は、 一本調子の 如く a- せる 彼の 性格 や 

創作力に 對 する a 方 を 打破す る ものと して、 中々 深い 意味 を 持った ものと 言 はな けれ 

ばなら ない。 

又 I 方に 於いて は * 古白、 五州、 鳴 雪、 飄亭、 明 庵、 桃 雨 等 諸氏と 共に、 盛んに 俳 

句會を 開いて は 俳句 を硏究 したり、 新しい 句 を 作ったり した。 推 之 友 諸氏と 『俳諧』 を 

發 行した のも此 年であった。 

二十 六 年の 暮 から 二十 七 年の 初頭に かけて、 政治問題が 頻りに 騷 がしく、 政府と 議 

會 との 紛投が 盛んに ゴ タ附 いて ゐた。 條約勵 行と か 自主的 外交 資任 內閣 とかい ふ 言葉 

は、 議會ゃ 新開に 熱烈な カを帶 びて 叫ばれる。 政府で は 死物 狂 ひに なって 議會の 解散 

子規 i は 如何な ろ 人お 一一 一九 



を けたり、 新聞の 發行を 停止して 一一 一一 nil を壓 迫したり するとい ふ 有様であった。 當時 

は 『日 木 新聞』 も民黨 として 議會ゃ 諸 新聞と 共に、 然 うした 旗幟 を 押し立て X 政府に 反 

抗 したので ある。 從 つて 政府の 睨む ところと なり、 一 度なら す 二度なら す、 停止 叉 停 

止と いふ 憂き目 を 見た。 然 うした 非 立憲 的な やり 口に 依って 言 一!l が 腹 迫され てし まふ 

もので はない。 停止 を 喰へ ば^ふ 程 益々 反抗す るの は iin 然の 勢で ある。 併し 何とい つ 

て も 新聞 は 經濟的 拘束 を 受けた 事業で ある。 さう 幾度 も 停止され ると 自然 讀者は 減る 

し、 經濟的 基礎に 危險を 及ぼさない では ゐ ない。 それ を 何う かして 救濟 する 方法 を講 

じなければ ならない。 共れ に は 平素 から^に 一 斬 聞 を 起して おいて、 甲の 新聞が 停止 

せられる と 同時に、 その 乙の 新聞 を讀 者に 配附 すれば よい。 第一 讀 者に 不便 を 感ぜし 

めない 許りでなく、 新聞 維持の 上に 於ても 方法が 立つ 11 と 斯う 日本 新聞社の 社員 等 

が考 へて、 ^に 新しく 『小 日本』 とい ふ 家庭的な 上品な 新聞 を: & へようと 決議した ので 



處 がい ざ發刊 するとな ると、 社員 中に 適當な 人物がない ので、 とうく そのお 鉢が 

子規に 迥 つて 来た。 子規 だって 必す しも 適材で あると いふ わけで はない が、 兎に角 や 

らして はたら 何 うだらう とい ふこと になった。 つまり 編輯 主任で ある。 子規 も 快諾し 

て、 いよく 其の 新聞が 二月から 發刊 された。 彼 はもう 單 なる 俳句 攔 の擔當 記者で な 

くて、 純粹の 新聞記者 になった ので ある。 材料の 取捨から 原稿の 檢閲、 扭ては 緣畫の 

註文ゃ募^^^俳句の選ゃ、 艷 種の 雜 報まで 自ら^ を 把って 朝から 夕 まて 孜々 として 倦ま 

ざる 活動 を繽 けた。 十:: 島 I 念 氏 は 子規の 編輯に か \ る その 新 間 を 『誠に 小ぢん まりと 

した、 だれ 氣味 のない、 さう して 品の よい ものであった』 といって ゐる。 之れ を以っ 

て兑て も、 彼 は 新聞 編輯の 才に 於いても 相當の 手腕 を 持って ゐ たこと が 想像され る。 

未だ 下宿屋に ゴ tl くして 世に出ないで ゐた中 村 不折氏 を 拾 ひ 出して 入社 させたり、 

俳句 仲 問の 飄亭ゃ 李 坪、 露 月 等の 諸氏 を 俄か 仕立ての 新聞記者に したりし たの も 拾 度 

此の 當 時の 事で ある。 併し 彼 は 此麼に 忙しい 頓 になって から も、 『俳句 一 口 詰 „i (俳 話) 

子規と は 如何なる 人ぞ B1 . 



を 害いたり、 小 說『 一 n 物語』 を 作ったり して 新聞に 發 表した 共の 努力と 勉強と は、 實 

に 驚くべき ものが あると いってよ からう。 

1 方 政府 對議會 の 問題 は 益々 火の手が 盛んになって、 日本 新聞の 發行 停止 も 度重な 

り、 逮 ひに それの 代用 新聞た る 『小 日本』 が 『日本 新聞』 の 代りにな つて、 盛んに 政府 反 

抗の氣 勢 を 揚げた。 ところが 此の 『小 日本』 も 亦發行 停止 を 喰 ふに 至った ので ある。 そ 

れが 一 度なら す 二度なら す、 三度 迄 も やられた の だから 溜らない。 遂 ひに 財政 上の 大 

打 擎の爲 めに 同年の 七月、 卽ち 僅か 六 ヶ月の 壽命を もって 廢刊 せざる を 得 なくなった。 

『小 曰 本』 が廢刊 され、 社が 解散され ると、 子規 も 露 月 氏 ゃ飄亭 氏な ど, - 共に 日本 新 

聞 社に 入社した。 否 復 社した。 『文界 漫言』 や 『上野 紀行』 や 『そビ ろ あるき』 や 或は 『字 

餘り 和歌 俳句』 『地 圖的觀 念と iasf 的觀 念』 『王子 紀行』 など を 書いた の は、 袷 度 『日本 新 

聞』 に復歸 した 早々 の 頃であった。 

^度 其 頃から 慘潜 たる 風雲 は、 鶴 林 八道の 天地 を蔽 うて、 遂 ひに 豐島 沖の 一 海戰が 



RI 淸戰爭 の 序幕と なって しまった。 初めての 外國 との 戰 であるから * 國民は 悉く 與 

裔し 緊張し 切って ゐる。 新聞社で も 戰爭の 報告で 全紙 面が 一杯に なり、 社員 はわれ も 

われ も從 軍記 者と なつ. て戰 地に 赴く とい ふ 有様であった。 處が 何う した 心持ち からか 

彼 も亦從 軍記 者に なり 度い と 言 ひ 出した。 戰爭 とは綠 のない 俳人が、 而も 肺病 を 持つ 

た驅 でありながら、 從軍 記者になる などと いふ こと は、 鳥渡 受取り 難い。 是れに は 流 

石の 同僚 達 も 聊か 吃驚せ ざる を 得な か つ た。 殊に 其の 病躯で は 野に 臥し 山に 寢 なけれ 

. ばなら ぬ從 軍記 者と なる の は 思 ひも 寄らぬ こと、 まるで 死に 行く やうな もの だ、 など 

と 仲 から 頻りに 中止の 忠吿ゃ 反對を 受けた。 けれども 一 度 思 ひ, 立って しま ふと 彼 は 

頑として 志 を 翻さう と はしなかった。 それで 仕方なし に 社で も 彼 を 特派員と して 從軍 

させる ことにした。 併し 後から 考 へて 見る と、 これが 彼の 壽命を 縮めた 最大 誘因で あ 

つたので ある。 

斯くてい ろ/ \- の 準備 を 整へ て、 いよく 東京から 先づ 大本 營の ある I: 我 島に 向った 

子規と は 如何な ろ 人! V EI11 



の は 同年の 三月 三日であった。 それから 鳥渡 鄕里松 山に 立 寄り、 廣 島に 歸 つて 第二 軍 

に從 ひ、 宇 品. から 出帆した の は 四月 十日であった。 下士 兵卒 神官 憎 侶な ど X ゴッタ 交 

ぜに 同じ 部屋に すし 詰めに 打ち込まれて 身動き もなら す、 其の 食物と いひ、 寢具 とい 

ひ、 翁ね て覺悟 をして 来たと はい ひ 乍ら、 !寸 其の 待遇の ひどい のに 驚かざる を 得な 

かった。 殊に 下士な どの 人 を 人と も 思 はぬ 威張り 方に 少 からす 憤慨した) それでも 辛 

抱し 乍ら、 兎に 1^ 柳樹 屯に 上陸した の は 四月の 十五 日 * 十九 日に は 旅 順に 到着した の 

である。 それから 都合 上、 w び 近 衞師圑 の 向った 金 州 地方に 引返した。 

彼は從 軍記 者と して 此當 時、 『羽 枝 I 枝』 『陣中 日記』 等 を 書いた。 けれども 此の 從軍 

は 彼に とって 愉快な ものではなかった。 最も 不快 を 感じた の は 前に も 言った 通り、 軍 

隊の 新聞記者に 對 する 待遇で ある。 石 牀に寢 ね、 土間に 臥し、 高梁に^^すことは、 必 

すし もい とふと ころで はない けれども、 曹長 位の 奴等に 怒鳴り 散らされて、 小さくな 

つて ゐ なければ ならな いのは、 彼の EK も不 滿を感 する 處 であった。 少く とも 新聞記者 



は 其の 使命から いって 將 校と 同等の 待遇 を與 へるべき が相當 である。 それ を 上 {p" に訴 

へ て も 一 向 取り合って 吳れ い。 上官 は 寧ろ 新聞記者 を 一 兵卒 同様 だと 迄 放 雷した。 

もう 彼 は 溜ら なくなった。 卽 日歸國 しょうと 決心した? けれども 乘 船の 都合 や 其 他の 

事情で 歸國が 後れて ぐづ くして ゐた。 

其內 にやが て 講和が 成立した ので、 同僚 七 八 人と 共に 大連灣 に 出で、 佐渡國 丸と い 

ふに 乘 つて 歸 國の途 に 就いた。 それが 五月の 十四日で ある。 十七 曰に は 兼て 危ぶまれ 

たこと が現實 した。 それ は 何で あるか、 とい ふに 彼が 俄に 咯 血した ことで ある。 今迄 

は 肺病 を 持って ゐ ると いふ 丈け で、 さう 大した 軀の 不自. S を 感ずる こと もなかつ たの 

であるが、 此の 時 を 劃して 彼 はすつ かり 所謂 病人に なって しま ひ、 再び 起つ 能 はざる 

身と はなった ので ある。 

現と は w 何な ろ 人! V 五 



四、 病床 時代 

佐 渡 國丸船 上で 咯 血して から は、 すっかり 病人と なって 三十 五 年 九月 遂 ひに 此世を 

辭 する 迄 を * りに 病床 時代と 呼んで 匿 く。 此の 時代 は 彼が 一生涯の 中、 最も 藝術的 

に 活動した 時代で ある。 俳 擅 は 勿論の 事、 歌壇、 新體 詩壇、 寫生 文壇 等の 多方面に 於 

いて、 彼の 才能が 發禪 せられた。 彼の ほんとうの 事業から 云っても、 彼の 功鑌 からい 

つても、 此 S 代 は 最も その 眞 面目 を發 揮した 時代で ある。 

さて 船中で 咯 血した 彼 は、 五月 二十 三日 船が 和 田 1. に 着く や、 直ちに 上陸して, 神 

III 病院に 入院した。 此の 報 を 聞いて、 京都から は SI 子 氏が 來る、 東京から は 碧 梧桐 氏 

が 子規の 母 を 伴れ て來 る、 松 山から は 叔父が やって 來 ると いふ 騒ぎであった。 兎角す 

るう ちに 病氣 も稍輕 快に なった ので * 七月 二十 二日に 其の 病院 を 、退いて、 須磨 保養院 

に 入り、 共處で ゆっくり 療養す る ことにな つた。 渐く維 も 執る こどが 出來る やうに な 



つたので、 其 處で 『養 病雜 記』 とい ふ 隨箪を 害いて、 『日本』 紙上に 揭 げた。 

斯くて 八月に は 鄕里松 山に 歸 省した ので あるが、 當時 子規の 家 は 東京に 移轉 してし 

まった あとな ので、 夏 目揪石 氏の 家に 寄寓した。 玆には 約 二 ヶ月 許り 滯 在して ゐ たが 

當時 は^に 責任 を帶 びた 仕事と いぶ もの はない ので、 唯 病氣を 保養す る 丈け であった 

から、 共の 傍ら、 今迄 放棄して 置いた 俳句の 硏究 及び 創作 を 又 やり 出した。 當 地の 靑 

年 俳人 を 集めて 松風 會と いふ 俳句の 圑體を 作り、 共に 俳句 を 作り、 或は 彼等に 句 論 を 

講じた。 柳 原 極 堂 氏 は 『君 は 常に 六疊の 間に 蒲團の 上に 臥したり 起きたり して 居た が 

吾々 同人 は 絶えす 一 一三 名 叉 は 五六 名 其の 枕邊 を取卷 いて 懇切なる 君の 指導 を§、 も 

の、 一ヶ月 餘も こんな 梅に つ ^- きて 同人の 俳 境に 著しく 進歩した こと を 信す る』 と 

いって ゐる。 此 同人の 中には 前記 極 堂 氏の 外に 漱石、 梅屋、 叟柳、 愛 松、 三麗 等の 諸 

氏 もあった。. 彼 は 之 等の 同人 を 『學問 をせ ょ讀書 をせ ょ舉 問な しに 到底よ い 俳句の 出 

來 やう: の もので 無い』 『,學 問 はなん の舉 問で もよ じ』 などと いって、 頻りに 鞭撻す る 

子規と は 如何なる 人 5V R 七 



ところがあった。 十 w の 『日本』 紙上に 載せ-た 『俳諧 大要』 (これ は 後に 一 冊に なって 出 

版せられ た) は、 實に當時の講話を編,^§;したものでぁったのだ。 

やがて 彼 は 十 十九 日に 松. H を出發 し、 奈良を 經て歸 京した。 途中 『#椎 結核 性 

髓 腐蝕 症 カリェス』 とい ふむ づ かしい 名の 病氣 が併發 したが、 これが 後に 全く 病床の 

人たら しめた 副 H であった といって よから う。 歸 京して 根 岸の 家に 入って から は、 全 

く 歩行の {E:.s がき かなくな つてし まった ので ある。 それでも 輋を 執る こと は 止めない。 

士 一月に 人って 『棒 三昧』 と 題す る文藝 上の 多方面に 一 且る 感想 やら 批評 やら を 書いた。 

越えて 二十 九 年に は先づ 一 月に 『俳句 二十 四體』 を 作り、 三月に は 『三十 棒』 と 題す 

る 文 藝雜評 を 書いて 文壇に 當り 散らした ので ある。 又 從軍當 時に 於け る、 軍隊の 從軍 

記者を^^遇することの^^しきを憤った『從軍記事』を 一 月の 『日本』 紙上に 窨 いた。 それ 

から 『戯曲と 四季』 『俳.? ii: 答』 等を發 表した のも此 年の 1: 頃の 事で ある。 『俳句 問答』 は 

初め 『日 木』 紙上に 述 載され たもので あるが、 後に 一 W になって 出版され たので ある。 



彼の 俳句 論と して は、 前の 『俳諧 大耍』 などと 共に * 見逃がすべからざる ものである。 ■ 

それから 彼の 隨筆 ものと して 有名な 『松蘿 玉 液』 は、 實に 四月から 十二月に 百 一って 『ほ 

本紙 上』 に 連載され たもので ある。 . 

束 京へ 歸 つてから、 彼の 周 圍には 叉 新しき 俳人が 集って 來て、 毎月の 如く 俳句 會が 

子規 庵に 催される やうに なった。 社會を 興奮せ しめた 戰爭も 終り を 吿げ、 子規 も 俳壇 

の爲 めに 活動 をし 出した ので、 漸く 俳句が 盛大と なり、 各地に 俳^ 會の 起る もの 多ぐ 

全 國の諸 新聞 雜誌 は爭 つて 新しき 俳句 を 載せる とい ふ 有様に はなった ので ある。 それ 

から 彼が 渐く 和歌 を 研究し 出した の も * 此 年の 夏 頃の ことであった。 

此の 年 迄 は、 病の 怠って ゐた 場合に は、 辛うじて 散歩 も • 出来た ので、 赤 羽と か * 上 

野と か、 E 黑 とかに 遊んだ ので あるが、 翌 三十 年に 入って から は、 腰の 患部が 痛み 出 

して、 腐った 骨から 膿 は 斷 なく 流れ出る し、 资髓 祌經は ひどく 痛み 出す とい ふ 工合 

で、 迚も/^ 自 出に 起居す る ことが 出來 ないやう になって しまった。 それが 餘り ひど 

子規と は 如何なる 人 ど 四 九 



くな つたので、 四月に 手術して 貰った が、 化 1^ 益々 はげしく、 更に 衰弱 さへ 加 はる 事 

夥しかった 爲 めに、 同月 末 に は 危篤の 狀 態に 迄な つた。 けれどもい & 工合に I 命 を 

とり 止めて、 漸く 六月 頃に それが 快復して 來 たので ある。 けれども 脊髓の 腐蝕 は 全く 

全快した ので はない。 腰部より 臂 部に かけて 七 筒の 瘻ロ 生じ、 膿汁が 出て、 劇痛が 甚 

しかった。 

此^!^は彼の^?名な『俳人蕪村』が世に出た。 蕪 村 は 入 も 知る 如く 子規の 最も 崇拜 した 

俳人であって、 蕪 村を傳 し、 燕 村 を 祖述す る こと は 子規の 事業に 最も 大 なる 意義 を 組 

與 する ものである。 これ は 五月から 十一 月に 一口 一って 『日本』 紙上に 連載され たので ある 

が、 後一 冊と なって 出版され た。 從 つて 蕪 村 熱が 俳 擅に 流行して、 n 本 派 以外の 俳人 

に 迄 それが 及んだ 程で ある。 大野 洒竹 氏が 『與謝 蕪 村』 を 奢し • 雪 人 氏が 『校註 蕪 村る 

集』 を 翻刻した のも此 頃の ことで ある。 子規 は 此の 外 『俳諧 反古籠』 『俳句と 漢詩』 『士 J 

野 拾遺の 俳句』 『試問』 等の 俳句に 關 する もの を蒈 いた。 又 『二十 九 年の 俳.:? 界』 を 書い 



て當 時の 俳 擅 を忌撣 なく 批評し、 兼ねて 俳句に 對 する 主張 を 述べた の は、 當 時の 若き 

俳人 を 何の 位 益した かわからない。 . 

それから 此 年の 子規の 活動の 中で 注目に 價 する もの は、 彼が 新體詩 ゃ小說 に汔」 指 を 

染めた 事で ある。 自ら 新 體詩を 作ったり、 『新體 詩 押韻の 事』 とい ふ 詩論 を 書いて 表題 

の 如く 新體 詩に 押韻すべき こと を 論じたり した。 或は 又 『新 小說』 に 『花 枕』 とい ふ小說 

も 書いて 發 表した。 『月見草』 とい ふ 小說を 害いた のも此 頃の 事で あらう。 十 一 月に は 

子規 庵に 飄亭、 碧 梧桐、 窳 子等の 諸氏と 共に * 小 說會を 開いた こと も ある。 

叉此 年に 注目すべき こと は • 伊豫の 松 山に 『ほととぎす』 とい ふ 俳句 雜 誌が 生れた こ 

とで ある。 これ は 直接 子規が 關 係した ので はない けれども、 後此雜 誌が 東京に 移され 

て、 專ら 子規 派の 中央に 於け る 機關雜 誌と なった ので ある こと は、 人の 知る 通りで あ 

る。 此の 雜 誌が 子規の 塞 業に とって 後年 何の 位ゐ 重大な 役目 を受 持った か 知れない。 

翌 三十 一年に は、 『三十 年の 俳句』 を瞽 いて 前年の 俳 擅の 進歩せ る こと を 認めた。 此 

?規と は 如何な ろ 人-. V _i 



頃 は 俳句 革新の 事業 はもう 殆んど 八九分 通り 出來 たといって よい。 それでも 松 山の 

『ほととぎす』 が、 九月に 新しく 東京に 移されてから は、 それ を機關 として 『古池の 句 

の辨』 『蕪 村と 几董』 『俳諧 かるた』. 等 を 書いた。 彼の 鳴 雪、 碧 梧 柄、 虛 子等の 諸氏と 共 

に 寄り合って、 燕 村 句集の 輪講 を 初めた の も. 此 年の 一 月の 事であった。 これ は數年 

- に, 一旦って 繼績 せられ、 後に 『蕪 村 句集 講義』 として 出版され た。 

右の外此年に注目すべき^^、 彼が 和歌の 開拓に 切り込んで. 行った ことで ある。 彼 は 

當 時の 舊派 和歌 も 新派 和歌 も 共に. 飽 足らす として 排斥し、 自ら 『百 中 十 首』 などと 題し 

て、 和歌 を 作り、 『日本』 紙上に 指げ たので ある。 一 方に 於いて 『萬 葉 築』 を推獎 し、 降 

つて は實 朝、 田 安 宗武、 井手 曙覧 等の 隠れた る 歌人 を 紹介して 其の 價値を 世に 示め し 

た。 彼の 歌論 は 『歌よ みに 與 ふる 害』 (これ は 十篇に 分れて、 「十た び駄 よみに 與 ふる 書」. > 

迄にな つて ゐる) 『人々 に 答 ふ』 (これ は其ノ 十三 迄にな つて ゐる) 『五 七、 五 七 七』 等の 中 

に 述べられて ある。 これら は 竹の 里人と いふ 名 を もって、 『》! 本』 紙上に 主として 揭載 



せられた ものである。 

それから 例の 寫生 文なる ものが 彼に よ つて ボッ く 書かれた こ とも 此 年の 見逃がす 

ベから ざる ことで ある。 『小 園の 記』 が 『ホ トト ギス』 に發 表された のは此 年の 十 一 月の 

事で ある。 

翌 三十 I 一年に は 彼の 精力 は 益々 發 揮され て、 俳 擅の 活動 は從來 の^りに、 ■ 更に 和歌 

ゃ寫生 文の 方面の 活動が いよく 盛に なった。 三月 十四日に 開かれた 子規 庵の 短歌 曾 

は > 彼の 根 岸 派の 短歌の 中心 勢力であった 根 岸 短歌 會の始 りで ある。 『萬 葉 集を讀 む』 

『^覧 の^』 『歌 話』 等の 歌論 を 兌れば、 彼が 如何に 歌壞の 開拓に 猛進した かに わかる で 

あらう。 『n 本 新聞』 では 新しく 和歌 を 募集して、 自ら 選し 初めた の も 此の 年の 末顷の 

事で ある。 

又 寫生文 の 方面で は 『燈』 『蝶』 『旅』 『飯 待 つ 間』 『柚 味^ 會』 『熊手と 提灯』 『病』 等 幾多 の 

作 を 書いた。 これら は 何れも 極めて 短い ものであるが、 寫生 文の 初期の ものと して、 

チ 現と は i3M たる 人お £ 三 



重大な 意義 を も つた ものである。 

俳 論の 方面に 於いても、 新しき 後進の 爲 めに 『俳句 新派の 傾向』 『俳句の 初歩』 『炭 太 

祇』 『隨 1^ 隨答』 『俳句 評 釋を讀 む _ 「『俳諧 三 佳 書 序』 等 幾多の 評論 やら 解說 やら 感想 やら 

を窨 いたので ある。 まるで 床の 屮の 病人と は 思 はれぬ 程の 努力で ある。 

三十 三年に 入って から、 一 般の 募集 歌の 選に 益々 努力した。 而 して 同志 を 集めて 病 

床に 歌會を 催したり して、 新しき 獨創 的な 短歌 を擴 むる こと を 怠らなかった。 一月の 

『日本』 紙上に 發 表した 『短歌 愚考』 は 一 つく 歌の 實例 をと りて、 添削 的に 批評した も 

ので ある。 . 

それから 此 年に 忘れで はなら な いのは 彼が 一 月に 『叙事文 論』 を 書いた ことで ある。 

これ は 今迄 俳句 で や つて 來た寫 生と い ふ こと を 文章に 試みて、 小品 文め いた もの をち 

よいく 書いて 來 たので あるが、 それ を自覺 的に 一 の 文章論と した ものである。 卽ち 

寫生 文に 組織的な 基礎 を與 へんと 試みた もので 寫生 文の 歷史 から 考 へて 決して 輕視す 



る ことの^ 來な いもので ある。 一 方创 作の 方で は r 新年 雜記』 r ラム プの 影』 などの 寫生 

文 を W いた。 

彼が 佐 渡 國丸船 上に 咯 血して から 以來六 年 其 間に 彼の 病勢 は 決して 怠って ゐ たわけ 

ではない。 いろくな 副 病が 併發 して、 危篤 を傳 へられた 事 二 囘に迄 及んだ ほどで あ 

る。 けれども 彼の 意氣 は;^ して 挫けないで 益々 文 擅に 大 なる 活動 を 縫け て來 たの だ。 

又 彼の 病狀 から 言っても、 未だ 彼の 執 策 を^し くさ またげる ほどではなかった。 ,實 際 

はさ またげる 程であって、 唯 彼の 意志 は 病 氣を壓 迫した のであった かも 知れない。 併 

し 三十 四 年頃に なつてから は、 彼の 病勢 はもう 容易で ない ほど 進行して 來た。 腰 や 横 

腹から 膿が 出たり ig み 出したり する こと は、 依然として 止まない 許りでなく、 耳 をす 

ましてき くと 右の 肺の 內で、 ブッ く.,. (\ とい ふ 音が 絶えす 開え る。 これに 就いて 彼 

は 自ら 斯う 記して ゐる。 『小生の 病氣 は, 單に 病氣が 不治の病なる のみなら す- 病 氣の時 

期が 旣に 末期に 屬し 最早 如何なる 名 法 も 如何なる 妙藥も 施す の 餘地無 之 神様の 御 力 も 

I ^現と は 如何な ろ 人-も 五 五 



或は 難 及 かと 存 居候。 小生の 今 曰の 容態 は 非常に 複雜 にして 小生 自身す ら往々 ,教 、解 致 

居 次第 故、 迚も 傍人に は 說明難 致 候へ, ども 先 づ病氣 の 種類が 三種 か 四 種 かお 之 * 發熱 

は 毎. H: 、立つ 事 も 坐る 事 も 出来ぬ は 勿論、 此頃 では 頭 を 出し 擡 ぐる 事 も 困難に 相. 成、 叉 

疼^の ため 寢 返り 自由なら す、 蒲圑の 上に 釘附 にせられ たる 有様に 有 之 候。 疼痛 烈し 

き 時 は 右に 向きても 痛く 左に 向きても 痛く 仰向に なりても 痛く、 丸で 阿鼻叫喚の 地獄 

も斯 くやと m 心 はる、 許の 事に 候。』 寢 返り をす る 時には 他人の 手 を かりてす る けれども 

看病人が 側に 居ない 時の 爲 めに とて、 寢 床の 側の 疊に、 麻 もて 箪笥の 環の 如き 者 を 二 

っ三っところ-^にこしらへ て貰って、 それにつ かまって 寢返 へりして ゐた。 けれど 

も 次第に それ も 不用になる 程、 身體の 動作が 不自^に なった ので ある。 更に 又 彼 は そ 

の 苦み を訴 へて ゐる。 『病床に 寢て、 身動きの 出 來る問 は、 敢て 病氣を 辛し とも はす 

平 氣で寢 轉んで 居った が、 此 頃の やうに 身動きが 出來 なくなって は、 精祌の 煩悶 を 起 

して、 殆んど 毎日 氣 遠の やうな 苦しみ をす る。. 此 苦しみ を 受けまい と 思うて、 色々 に 



工夫して、 或は 動かぬ 體を 無理に 動か L て 見る。 愈々 煩悶す る。 頭が ムシ ャく とな 

る。 もはやた まらん ので、 こらへ にこら へた 袋の 緖は 切れて、 遂 ひに 破裂す る。 もう 

かうな ると 駄目で ある。 絶叫、 號泣、 益々 絶叫す る、 益々 號泣 する、 その 痛 何とも 形 

容 する こと は出來 ない。 寧ろ 眞の 狂人と なって 仕舞へば 樂 であらう けれども、 それ も 

來ぬ …… 寢起程 苦しい 時 はない ので ある。 誰か この 苦 を 助けて 吳れる もの は ある ま 

いか、 誰か 苦 を 助けて 吳れる もの は あるまい か』 と。 誰か 之 を讀ん で、 同情の 淚を注 

がぬ ものが あらう か。 

1 、 人間 一 HI 

右 返上 申 候、 伹時 々 幽靈 とな つ て 出られ 得る やう 以 特別 御 取 許可 被 下 候 也 

明治 三十 四 年 月日 何が し J 

地 水火 風 御 巾 

これが 當時 彼が 戯れに 書いた 而も 悲痛な 文字で ある。 

は M 何なる 人 《 丑お 



併し 彼の 意志 は何處 迄つ よい かわからぬ、 彼の 努力 は 何 處迄彈 力に 富んで ゐる かわ 

からぬ、 それに も 拘らす 彼 は 三十 四 年から 五 化に かけて、 『初夢』 『死後』 『くだもの 』 『九 

月 十四日の 朝』 などと いふ 寫牛; 文 やら 小品 文 やら を 書いた。 又 『病牀 俳 話』 『獺祭 書屋 

俳句 帖抄 上卷を 出版す るに 就いて 思ひ附 きたる 所 を 云 ふ』 等の 俳句 論 や 俳 話 やら を 書 

き、 或は 『仰臥 漫錄』 『墨汁 一 滴』 『病牀 六尺』 などと いふ 日記め いた 感想 錄を 毎日 筆の 執 

れる 限り 書いた ので ある。 前に 述べた やうな 病人が、 よくも 斯うした 勢力が 出た もの 

と 人 皆が 驚嘆す ると ころで ある。 

併し 彼が 如何に 意志 堅く、 氣强 く、 生活力が 旺盛で あると は 云へ、 斯麼に 迄 病氣が 

ひどくな つて は、 永く 堪へ 得る もので ない。 寧ろ これ 迄に 生きて 來 たのが 奇蹟と いは 

なければ ならない。 ^然 三十 五 年 は 九月の 十八 日と いふに、 彼の 病狀が 俄かに 革 まり 

翌十 九日の 午前 I 時と いふに、 母と 妹と、 それから 二三の 門人 知己と に まもられて、 

眠る が 如く 此の世 を 去った。 十八 日の 午前 十 I 時 頃、 彼 ももう 駄目 だと 思った のか、 



碧 梧桐と 妹に 墨 を IS ら せて、 

糸^ 咬い て 痰の つまりし 怫 かな 

痰 一 斗 糸瓜の 水 も 間に あはす 

をと とひ の へちまの 水の とら ざり き 

の 三 句を辭 世と して 畫 板に 阽附 けた 唐紙に 自ら 書いた。 

. 斯くて 俳壇の 革新 者た る 我が 正 岡 子規 は、 一 二十 六歲を 一期と して、 永遠に 此 世を辭 

したので ある。 . 



子 現と は M 何なる 人ぞ 五 * 



第 四 章 子規と 其の 周圜 

如何なる 運動で も、 廣ぃ 社會に 何等かの 影響 を與 へ、 或は 波瀾 を 捲 起す 場合に は、 

それが 唯 一 人の 力で 爲 される のではなくて、 其處に 幾人 かの 助成 者 か 共 動 者が 見出さ 

れる のが 普通で ある。 それが 或 時には 主導者が あって 其の 周圜に それの 助成 者が 集つ 

てなる 場合 も あれば、 S に 特に 目立った 主導者と いふ ものがなくて、 何れも 相 當のカ 

,と 熱情と を 持って 共助 的に 運動の 促進に 努める 場合 も ある。 けれども 要するに 唯 I 人 

でない こと は 確かで ある。 千規の 場合 は 何う であった か、 とい ふに 前者の 場合に 屬す 

る。 卽ち 彼が 主導者の 地位に 居り、 其の 周圍に 彼の 運動 乃至 事業 を 助成す る 多くの 人 

人が 集って、 彼 を 援助した ので ある。 されば 彼の 事業 を 知らん とすれば、 彼と 彼の 周 

園の 助成 者との 關係を も 知らなければ ならない。 

彼の 親友であった 大谷是 {41 氏 は 彼に 關 して 斯う 書いて ゐる。 『書生 時代の 子規 君の 親 



友と いふ もの は 餘り澤 山はなかった。 常 磐會の 人々 とべ I スボ I ル 仲間の 人々 は 別と 

して、 毎日 の 如く 必す會 合し て 文擧の 事な ど を 話し合う たの は 現に 農 商務お の 鑛山監 

督署 技師 細 井 岩吉君 と 僕との 三人で あつ た。』 常 盤會 の 人々 と は、 主に 五 百 木 飄亭氏 と 

か 竹 村 黄 塔 氏な ど を 指す ので あらう。 鬼に 角 彼 は 書生 時代 は 勿論の 事、 新聞記者 時代 

でも 病床 時代で も、 眞の 親友と いふ もの は、 餘り 多く 持って 居なかった らしい 事 は 想 

像され る。 けれども 其の 半面に 於いて、 一度 親友と なった 以上 は、 實に 兄弟 も 管なら 

ざる 程の 友情 を 傾けた ので ある。 これ は 勿論 彼の 門下に 對 しても, 同じ ことで ある。 

それから 彼が その 周 圍に對 する 離 4c も 注意すべき 價 値が ある。 彼が 次第に 俳句に 趣 

味 を 持ち、 更に それの 改革に 志 ざす やうに なつてから は、 彼 は 驚く 可き 熱心と 彈カぁ 

る 意志と を以 つて、 共の 周 圚の爲 に 俳句 を 研究し、 且つ 創作 せんこと を勸吿 して 怠ら 

なかった。 而 して 其處に 俳句の 空氣を 作らん と 努めた ので ある。 時には 强請的 態度に., 

出で たりした こと もあった らしく、 『君が 感 胃で 床に 臥しで もす ると 直ぐ 自分が お 伽 役 

チ現 と其 の 周 H <1 



で > 其の 節 は 多く 發 句の 話が 出で、 叉 自分に も 是非 一句 やる やうに 勸 めら れ るので、 

餘り 進み はせ ぬが、 附 合に やっても 晃た。 或る時 は 近處に 下宿して ゐた 同鄕の 山內傳 

吾 (現 陸軍 大尉 山 內正至 氏 11 これ は 三十 五 年の 事) を 呼んで 來 てお 伽 役の 分擔を 命じ 

たこと も ある、 傳吾 甚だ 迷惑 さう に 雁金の 題に て 火事の 夜 を 雁金が 飛んで 腹が 紅い と 

云 ふ 十七 字 をうな り、 僕に は 發句を こらへ てお 旲れと 平に 斷 つたの も 愛嬌であった』 

と 柳 原 極 堂 氏 は 明治 十八 九 年の 頃の 彼の こと を 書いて ゐる。 處が 此の 柳 原 氏 は 後に は 

すっかり 新派 俳人と なって しまって、 而も 相 當な乎 腕 を 示して ゐる 位で ある。 

共 後 彼 は 常に 俳句に 依って 友 を 得 * 俳句に 依って 友と 離れた。 卽ち 俳句に 熱心なる 

友 を 友と し * 俳句に 熱心で ない 友に 遠ざかった。 11 勿論 中 村不折 氏の 如く 二三の 例 

外 はあった けれども 11 。 これ を 兒ても 彼が 如何に 彼の 趣味から 來てゐ ると は 云へ、 

其の 事業に 對 して 熟 心で あつたか ビ思ひ やられる。 

是れ から 少 し Ei 、體的 に 彼の 周 S ^ 如何な る 人々 が 集って ゐ たかを 述べて 見よう。 



が 俳句 革新の 事 梁に 參 加して、 其の 熱心の 度に 於いても 創作的 手腕に 於いても 最も 彼 

の 信 賴を購 ひ、 彼の 兩 腕の 如く 活動した は、 河東碧梧桐及び高濱^!子のニ氏でぁるこ 

と は 何人も 是認す ると ころで あらう。 今日に 於いて は 同じ 日本 派の 系統に 屬 する 俳人 

中に、 一 一氏の 外に 更に 新進の 俳人が 現れて 相當に 俳壇に 勢力 を 持って ゐる であらう が 

子規 在世 常時から 殁後七 八 年間と いふ もの は、 曰 本 派の 俳壇 は 全く 一 一氏 I— 子規 を 除 

いて は I の 支配に 歸 して ゐ たと 云っても 差 支へ ないで あらう。 

碧 搭桐氏 は 子規と li 鄕松 山の 人で、 明治 六 年生れ とい ふから 子規より は 七 歳 許り 若 

いわけで ある。 氏 は 前に も 言った 通り、 俳人に して 子規の 親友たり し 竹 村 黄 塔 氏の 弟 

である。 矢張り 松 山中 學の 出身で、 京都 及び 仙臺 等の 高等 中學 校に 擧び、 それ 以後 は 

學校 生活 を 止めて 專ら 俳壇 の 人と なった • 

氏が 俳句 を 初めた の は 明治 1 1 十四 年頃の ことで あると いふから、 十七 八 歳の 頃で あ 

らう。 氏 は中學 代から 二三 度 東京へ 来て、 子規に 接し、 その 感化 をう けた。 又 子規 

子 親- J 其め 周饀 さ a 



が擧 校の 休暇に 歸 省した 畔に は、 勿論の ことで ある。 此の 少年 俳人が、 , 

もう 出で よ 出で よと 忍 ふ 小鴨 かな 

手 負 猪获に 息つ く 野 分かな 

などの 句 を 作って、 子規 をして 『彼 は 少年 を 以て 一躍して 文擧の 海中に 入りた しか 

^手中に 一 個の 寳珠を 握りた るが 如し』 と 驚嘆せ しめた ほどで ある。 それから 益々 子. 

規の 指導の 下に 進歩して、 『思想に 於いて 奇拔 なる、 句法に 於て 老成』 する やうに な, つ 

て來 た。 されば 初めは 隨子 氏よりも 碧 梧桐 氏の 方 を、 子規 は囑: H した 位で ある。 けれ 

ども 二十 七ネ 頃から 漸く 彼の 才 が!! 滞して、 それが 二十 九 年頃 迄始 いた。 二十 九 年.^, 

ら 更に 新しく 彼 は 活動し 初め、 極めて 印象的な 特色 を 摑んで 起った。 子規 は 此の 『印 

象 明瞭』 と. いふの を 彼の 特色と して 大いに 推奨した ので ある。 

彼 は 斯うした 創作的 才能 を發 揮す ると 共に、 一 方に 於いて は 新聞 雜 誌に 日本 派の 俳 

句の |c 及に 努力し • 子規が 從 軍した 二十 九 年の 留守に は、 子規に 代って 『日本 新聞』 の 



募集.:? を 選んだり した。 子規が IS 氣 にか \ つてから は、 虛子 と共に 最も 看病に 努め、 

臨終の 時には、 醉 世の 句の 筆に 墨 を ひたして やった 程で ある。 

碧 梧桐 氏と 共に 子規 門の 双璧と 稱 せられた 高 濱虛子 氏 は、 同じく 松 山 出身で あるが 

碧 梧桐 氏より 一 年後れ て 明治 七 年に 生れ、 子規 を 知る にも、 俳句 を 作る にも 而 して 又 

創作的 才能の 發 達に 於ても 彼より は 稍々 後れた とい はれて ゐる。 けれども 其の 學校敎 

胄 にあって は 殆んど 兩氏は 同じ 道 を 步んで 同じ 處で 退いて ゐる。 而 して 仙 臺の 高等 中 

學を 止める 動機 も 共に 俳壇に 起た うとい ふ 同じ 希望の もとに 生れた ので ある。 

虛子氏 は 碧 梧桐 氏が 印象的、 寫實 的の 句 風 を 特色と する に 反し、 理想的、 主觀 的、 

乃至 は祌祕 的の.? 風 を 其の 特色と して ゐた。 又 碧 桐 梧 氏が 初めは 驚く 可き 才能 を發揮 

して 後に 一 時 沈滞した に 反し、 虛子氏 は 初めは 拙劣で あっても、 次第/ \ に 其の 隱れ 

たる 才能 を發 揮し て 行つ た 傾向が ある。 『厚く 志し 深く 思ひ孜 々 とし て 勉め遲 々として 

進む 者な り』 と は當時 子規が 虛 子の 迎 つた 路を 批評した 言葉であった。 初め 二十 五 年 

子規と 其の 周閣 S 



頃 は 未だ、 

酒 も 好き 餅 も 好きな り 今朝の 舂 

傘 さして 行く ゃ枯 野の 雨の 音 

など、 いふ 氣の 利かない 句 を 作って ゐ たが、 二十 八 九 年頃に は、 

燒 山の 夕暮 淋し 知ら ぬ 鳥 

怒 禱岩を 嘰む我 を 神 かと 朧の夜 

羽衣の 陽炎と なって しま ひけり 

の 如き 奔放な 句 風 を 自由に やっての ける やうに なった ので ある。 子規 は 素と 主觀 的の 

句 を ひどく 嫌った ので あるが、 虛子 氏の 斯うした 句に は、 感心して ゐ たやう である。 

彼 は 碧 梧桐 氏と 共に 日本 派め 俳句 を |E 及して 此の 革新 運動の 助成に 努力した こと は 

I 通りの 熟 心ではなかった。 『日本人』 紙上に 俳 話 を發 表したり、 松 山で 發 行して ゐた 

俳句 雜誌 『ホ トト ギス』 を ieB^ に 移して 日本 派の 機關 として 自ら 經 I したりした。 彼が 



此の 『ホ トトギ ス 』 を經營 した ことが、 何の 位ゐ 子規の 革新 運動の 達成に 就いて 貢献し 

たか 知れぬ。 今日 彼が 出して ゐる 『ホ トト ギス』 は 實に當 時の もの X 繼續 である。 

又 篤く 子規に 師事し * 1 方に 於いて は 子規の 病床 を 慰めて 臨終に 至る 迄 か はらな か 

つたこと は、 Siq 梧桐 氏と 同じで ある。 子規 は兩 氏の 才能 をよ く 認め 且つ 理解して ゐた 

けれども、 碧 梧桐 氏が 初めに 縱撗 の才を 示め した ありに、 共の 發 達が 思 はしくな いの 

で、 何方 かとい へば 一 歩々々 と 確實に 進歩して 行く 虛子 氏の 方 を 期待し、 彼の 事業 も 

主として 氏 を その後 繼^ たらし めんと 密かに 考 へて ゐ たやう に 思 はれる。 

內藤鳴 雪 氏 は弘化 ra 年生れ であるから、 碧虛 1 1 氏よりも 子規よりも 更に 遙 かに 年長 

者で あるが、 矢張り 子規 等と 同じく、 新しい 路を 歩んだ 人で ある。 出生地 も 子規と 同 

じく 松 山で、 東京へ 出て 來 たの は 明治 十二 年であった。 而 して 二十 二 年から は 例の 松 

山 出身 學 生の 寄宿 舍 たる 常盤會 寄宿 舍の 監督 をつ とめて ゐた。 彼 はいつ 頃から 俳句 を 

作り出し たかは 知らないが、 此の 寄-: 舍にゐ た 頃に は 子規 ゃ黃塔 氏な ど& 共に 句作 を 

M, 親と 其め 周 a ^-t 



して ゐ たこと は事實 である。 彼 は 同じく 日本 派と 歩調 を 共に して 進んで 來 たと は 云 へ 

年輩の 相違の 爲 めか、 或は 性格の 相違の 爲 めか、 其邊 はよ く詳 かで はない が、 若い 人 

達の 如く 奔放 自. 5 なと ころ は 少なく、 句 調に 於いて は 寧ろ 平淡な 倾向を 持ち、 趣 ゆに 

於いて は當 時の 現實を 材料と する よりも、 平安時代 とか 鎌倉時代 とか、 兎に角 遠き 過 

去の 生活 を 村 料と する こと を 好む 風が あった。 だから 彼 は 古典的な 倾向を 著しく 愛し 

てゐ たので ある。 けれども 蕪 村 其 他の 天明 頃の.? 風 を 好んだ 點に 於いて は 子規 や 其 門 

下等と 同じで ある。 

彼 は 句作に 於いて のみでな く、 俳 論に 於いても 相當の 見識 を 持って、 常に 年少の 俳 

友 等と 議論 を 上下した こと は、 甚だ 壯 とすべき である。 彼が 如き 年荤で 若き 人々 と 新 

しき 俳壇の 開拓に 努力した の は、 殆ん ど異數 である。 

以上の 如き 人々 が、 子規 を 先頭と して、 其の 周 園に 集り、 新しき 革新 運動 を 捲き 起 

したので ある。 彼等 は 常に 相會 して は 俳 論 を 試み、 古句 を 研究し、 新しき 句 を 作り 合 



つて、 子規の 事業 を 助成した ので ある。 明治! 二十 一 年頃から、 子規 を 中心に して、 鳴 

雪、 碧 梧桐、 ^!子の諸氏が數年にー旦って、 蕪 村 句集の 輪講 を爲 した ことが、 俳壇の 爲 

めに 何の 位ゐ 益す ると ころが あつたか 知れぬ。 

右の 外に 子規の 周圍 にあり て、 子規の 事業の 助成に 貢献の あった 人 は、 擧げれ ばい 

くら も 擧げる ことが 出来る。 例へば 五百木 飄亭、 柳 原 極 堂、 新 海 非 風、 石 井 露 月 等の 

諸氏の 如き は それで ある。 飄亭氏 は 後に は餘り 俳句 を 作ら なくなった けれども、 初め 

は 子規よりも 前に、 旣に 月並 調を脫 して 新しき 路を 切り開. S た 人で ある。 極 堂 氏 は 後 

松 山に 歸 つて、 雜誌 『ホ トト ギス』 を發刊 した 人で ある。 此の 雜誌は 後に 虛 子の 手に よ 

つて 東京に 移された こと は 前に 述べた" 新 海 非 風 氏 は 非常に 天才 的で、 子規が 最も 望 

みを囑 した 人で あつたが、 後に は 俳句に 遠ざかつ てし まひ、 石 井 露 月 氏 は 漢語 調の 豪 

壯 なる 句 を 特色と した 人で ある。 

子規 は 斯うした 人々 を 常に 鞭撻し 誘導し つ- -、 自らの 所信に 向って 募 進した ので あ 

チ sgi 其の 周 ffl , 六.! < 



る。 而 して 一 人々々 の 進境に 就いて 絶えす 注目し 批評した。 彼の 『明治 二十 九 年の 俳 

句界』 『三十 年の 俳句 界』 『三十 一 年の 俳句 界』 等 を 見る と、 彼が 周 園に 對 する 親切なる 

批評 をよ く 知る ことが 出來 る。 殊に 友人の 俳句 を 一 人々 々分類し、 其 人く の 句 tel^ を 

へて 置いた とい ふ 逸話 を 聞いて は、 實に 氏が その 周圍の 人々 に對 して 如何なる 態度 

をと つ たかを 知る に 十分で あらう。 斯 かる 努力が あれば こそ、 熟 心が あれば こそ、 氏 

の 事業 も 達成した ので ある。 



第五 章 改草 者と しての 子規の 性格 及 その 態度 

朽 敗し 墮 ii^ し盡 くした 俳壇 を 破壊して、 眞の藝 術 的 基礎の 上に、 新しき 俳壇 を 建設 

した あの 事業 を、 彼 は 何う して 爲し 遂げる ことが 出來 たか、 或は 彼の 活動が 何 を 油と 

し 何 を 石炭と して 爲 された か、 是 れを考 へる こと は 中々 意義 ある ことで なければ なら 

ない。 殊に 是れを 彼の 性格 乃至 態度に 結び 附 けて 觀 察する ときには * 彼の 功業の 必す 

しも 偶然で ない 事が 分る であらう。 

凡て 社會的 事業に ありて、 s きものが 力 を 失 ひ、 其處に 何等かの 新しき 氣 蓮が 生れ 

やうと する 場合 11 其の 1^ 遙が 如何に 脈々 として 一 膜の 蔭に 漲って 來 たにしても、 そ 

れを 突破して^ 光の 如く 革新の 光り を 振りかざす 人格が 現れなければ ならぬ。 而 して 

=^ ハ 人格 は それ を爲し 遂げ 得る 丈け の 性格 を、 並ハ 中に 持って ゐ なければ ならない。 斯う 

考 へて 來て、 子規の 性格 を兒る 時には • 其處に 彼が あれ 丈け の 事業 を 僅か 十 年 足らす 

としての 子規の 性格 及 そのお 一度 セー 



で 成し遂げる ことが 出来た 现. 5 を、 容易に 見出す ことが 出來 る。 

然 らば 子規の 性格に は 如何なる 特長が あつたか、 而 して それが 改革者と しての 彼の 

事業に 如何なる 關係を 持って ゐ るか。 此 問題に 就いて 少し これから 述べようと 思 ふ。 

先づ 彼の 事業、 彼の 生活、 彼の 態度 等を觀 察して 直ちに 氣の附 くの は、 彼が 驚く 可き 

程の 强き 意志の 所有者で あると いふ ことで ある。 文學 者の 通!^ とも 云 ふべき は、 意志 

の 薄弱な こと \ 一般に 認められて ゐる。 又 意志が 藩 弱 だから、 多くの 人々 が、 文學者 

になり 易い とも 言 ひ 得る かも 知れぬ。 されば こそ 多くの 藝術 論者 や 美事 者 は、 藝術乃 

至 美の 特性に、 無意 志 性と いふ もの を、 重大なる 一 條件 として 數 へたので あらう。 け 

れ ども 子規に あって は、 全く 之れ と 正反對 である。 彼の 藝術 は假 りに 刖 問題と して 生 

活を 通じて a? た 彼の 性格に は、 意志の 強烈なる 點が 普通人 以上に ある。 , 

第一 に 驚く 可き は 彼が 常に 意志の カを以 つて 病氣に 打ち 堪へ たこと である。 普通の 

肺病 だけであった ならば、 五 年 4. 年と 生きる こと は敢 へ て 珍ら しくない ので あるが、 彼 



は 肺病の 外に 一 種の 齊髓 腐蝕 症と いふ 恐るべき 惡 Iii の 疾患に 苛まれつ X 前後 八 年 問と 

いふ もの を、 それと 鬪 つたので ある。 『左の 肺が ブッ くと 昔す る』 程で も、 『蒲 阁 の 上 

て釘附 にせられ 右に 向きても-: 南く、 左に 向きても 痛く 仰向に なっても 甫く. 丸で 

阿鼻叫喚の 地獄 も斯 くやと 思 はる \ 許り』 になっても、 腰から 臀部に かけて 七 箇所の 

爆 口が 出來 て、 其處 から 膿汁が 盛んに 外に 流れ出しても、 鬼に 角 それに 打ち 堪 へて 生 

きたの は、 實に 彼の 異常な 精神力から 生れた 意志の 勝利で なければ ならない。 彼が 晚 

年の 病狀を 見た^ 師は、 共の 生き てることの 不思議な るに 驚いた とい ふ。 

それ 許りで はない。 さう した 苦痛の はげしい 病氣を 持ち 乍ら も、 常に 自己の 事業 を 

怠る ことなく、 且つ 研究し- 且つ 論じ * 且つ 創作した。 又 更に 加 ふるに 『墨汁 一 滴』 と 

か 『病牀 六尺』 とかい ふ 日常の 生活 及び 諸方 面に 對 する 感想 錄を、 殆んど 毎日の 如く HE 

き績 けたので ある。 彼の 事業 乃至 それに 對 する 努力 は、 寧ろ 彼が 病床に 臥してから 益 

益發 揮され たといって よい。 浙 うした 彈カ ある 努力 は 彼の 強き 意志から 來 ないで、 何 

改革者と しての 子規の 忤 5S 及 その S. 一 接 セー 一一 



から 來 よう。 

又 彼が 俳句 及び 和歌に 對 する 自己の 所信 を發 表する や、 四方から 手厳しい 攻 擊を受 

けたに 拘ら す、 決して 自己の 所信 を 柱げ たり、 閉 したりし ないで、 益々 勇氣を 鼓し 

て それら を戰 つたの は、 彼が 如何に 強き 意志 を 持って ゐ たかを 證 明して 餘り ある もの 

ではなから うか。 彼が 强き 意志と それから 生す る彈カ ある 努力 I これ こそ は 彼の 性 

格 中で、 最も 改革^と しての 彼の 事業に カを與 へた ものである。 彼が 日蓮 を 讃美した 

の も 偶然で はない。 

次に 彼の 性格に 就いて 述べなければ ならぬ の は、 シン セリ チイと いふ ことで ある。 

彼 は 如何なる 場合に あっても、 虛 飾で ある こと、 不眞 面目で ある こと を 許さない、 常に 

眞 寶と眞 面目と を 保つ こと を 忘れない。 時に 依って は 彼の シ ンセリ チイ はぎ ごちない 

俗に 云 ふ 融通の 利かない、 更に I か 踏み 越 ゆれば 固陋と もい はる \ほ どの ものに 陷り 

ぃ餘 はないで はなかった。 彼が 文字 上で は- 戀を 云々 した けれども、 實際生 5£ にあ 



つて は、 餘り、 否 殆んど 情事と いふ もの を 知らなかった らしい。 大谷是 {4! 氏の 記す と 

ころに 依る と、 『二十 I 年の 夏、 君 は 向島の 長命 寺 內の櫻 餅屋の 二階に 下宿 せられた、 

處が 誰が いひ 出した か 其 家の 娘と 關係 でも ある やうに 浮 名が 立った、 君 は 正直 だけに 

此事を 非常に 氣 にして 「、 「七草, 桌」 と 題す る 五六 十 枚 も ある 小說 的の もの を 書いて 雪寃 

を 試みられた、 僕 は 面白半分に 之れ を 材料に して 續編 小說を 作って 君に 叱られた こと 

が ある』 とい ふ 逸話が ある。 叉 彼が 『小 日本』 を やらう とした 時 藤 井 紫 影 氏を訪 うて 『淸 

潔な 家庭 新聞に する つもりで、 市井の 瑰談ゃ 狹斜艷 種 を 一 切ハ .13 くこと にした 云々』 と 

談 つたと いふ。 (勿論 これに は 他の 社員の 意志 も 或は 加っての 事で あるか も 知れぬ が、 

彼が 鬼に 角 主幹であって 見れば、、 王と して 彼の 意志で あると 想像しても よいで あらう) 

これらの 事 は、 彼の シン セリ チイの、 寧ろ 極端な ところから 生じた もので あらう。 

『墨汁 一滴』 の 中で、 秋 竹 氏が 『明治 俳句』 を 上梓 せんとす るの を 批評した 中で、 彼 は 

曰く、 『自己の 著作 を賫 りて 原稿料 を 取る は 少しも 恶き lail- に 非す。 され ど 其 著作の! n 的 

K 革 者と しての 子規の 性お 及 .vss^iK 七 五 



が原稿料を取るとぃふ|5^^ょり外に何もなかりしとすれば、 著者の 心の 賤 しき 事い ふ 迄 

もな し。 …… 近頃 俳句に 疎遠なる 秋 竹が 何故に 俄に 俳句 編 暴、 を 思 ひ 立ちた るか、 俳句 

集が 如何なる 手段に よつ て 集められ しか は 問ふ處 にあら す、 此 書物 を 出版す るに つき 

秋 竹が 何故に 苦しき 序文 を 書きし か は 予の問 ふ處に 非す。 若し 余の 邪推 を 明に いは e 

秋 竹 は 金 まう けの 爲に此 編 募、 を 思 ひっきた るな らん。 …… 余 は 秋 竹の 腐敗せ ざる か を 

疑 ふなり。』 と 言って ゐる。 又 更に 他の 箇所に 於いて、 彼 は 謂うて ゐる、 『ある 人い ふ、 

勳位 官名の 肩書 を、. 、< り ま はして、 何々 養生 法な どい ふ 杜撰の 說を ふりま はし 世人 を 毒 

する は 醫界の 罪人と いはざる ベから す …… 云々。 先頃 手紙して 此の 養生 法 を 余に 勸め 

たる 人 あり。 其 時 引 札 やうの もの を 共に 贈られたり。 養生 法の 引 札 すら 旣に變 てこな 

るに、 其 上に 引 札の 末 半分 は 三十 一 文字に 並べられ たる 養生 法の 訓示 を 以て 埋められ 

たる を 見て、 いよく 山師 流の やり方なる 事 を 看破せ り。 世の中に 道德の 歌、 敎 育の 

歌、 或は 養生 法の 歌の 如き 者 多く あれ ど、 斯る 歌な ど 作る 者に、 眞 の道德 家、 眞の敎 



育 家、 眞 の醫師 ありし 例な き 事な り。』 

こ を ば、 彼が 如何に 虛僞 と、 不 虞 面目 を惡 み、 眞 實と眞 面目と を 愛した かと 

いふ 彼の 性格 を 十分 知る ことが 出來 るで あらう。 若し 言 ひ 得べ くんば、 彼の 眞實 は、 

聰明なる 露實 でなくて、 素朴なる 眞實 であるか も 知れぬ。 けれども それ 丈け 彼の 性格 

の 奥底に 根ざした 眞實 であると 言 ひ 得る であらう。 

如何なる 方面の、 或は 如何なる 事物の 改革で も、 それの 根本の 意義 は、 虛僞な もの 

を 一掃して 眞實な もの を發揚 する ことに あらねば ならぬ。 これに 關 して は、 私 は 今更 

くどくと 例 を擧げ るまで もない ことと 思 ふ。 子規が 極端な ほどに、 虛僞を 嫌って 眞 

實を 愛する とい ふ 性格の 所有者で ある こと は、 改革者と しての 彼の 資格に、 重大なる 

一 條件を 加 へ る ものと 言 はなければ ならない。 

叉 彼に は複 I* な ものよりも、 簡單な もの を 好む とい ふ 性向が あるの は、 見逃がす こ 

とが 出来ない。 これ は 前に 述べた 彼の シン セリ チイ を 愛する の 性格から 生れる 一 端で 

改革者と しての チ 現の 性格 及. VSS 一度 七 七 



あるか も 知れない。 けれども鬼に角クド-^-したものゃ混み入ったものょりも、 簡潔 

な もの、 關 係の はっきりし たもの を 好む とい ふ 性癖の 著しい こと は事實 である。 彼が 

俳句 及び 和歌に 於いて、 『印象の 明瞭』 とい ふこと を 頻りに 主張した の も、 此の 性向の 

然 らしむ ると ころで あらう。 

彼 は 『病牀 六尺』 に 於いて 斯うい うて ゐる。 『余 は 幼き 時より 畫を 好みし かど、 人物 畫 

よりも 寧ろ 花鳥 を 好み、 複雜 なる 畫 よりも 寧ろ 簡單 なる 畫を 好めり。 今に 至って 尙ほ 

其 傾向 を變ぜ す、 其 故に 畫帖を 見ても ぉ姬様 一 人 書きた るより は、 榛 j 輪 書きた るか 

た 興味深く、 張 飛の 蛇 矛を携 へたらん より は 柳に 篤のと まりた らん かた 快く 感ぜら る。 

…… 墨畫 など も 多き 畫帖の 中に 彩色の はっきり したる 畫を 見出した らん は 萬 綠叢中 紅 

I 點の趣 あり。 ::: 或は 余の 性 簡單を 好み 天然 を 好む に 偏す るに 因る か。』 

又 彼 は 九 段の 靖國 神社の 庭 阁に對 する 感想 を 述べた 中で * 『若し 靖國祌 社の 庭園 を 造 

り變 へる とい. ふ 事が あったら、 いっそ 西详風 造り 變 へたら 善から う;. まん 丸な 木 や *, 



阆錐 形の 木 や、 三角の 芝生 や、 五角の 花畑な どが 幾何 學 的に 井 然として 居る の は、 子 

供に も 俗人に も 西洋 好きの ハ ィ カラ 連に も必す 受ける であらう。 固より 造り 樣さ へ 旨 

く すれば、 實 際美舉 上から 割り出した I 種の 趣味 ある 庭圚 ともなる ので ある。』 と 言つ 

てゐ ると ころに も、 彼の 『明瞭なる 印象』 癖が 露 はれて ゐる。 彼に あって は 上野 公園の 

やうな ふしだらな 公園 は 好ましくない。 

もう 一 つ その 例 を あげて 見るならば * 彼 は 名所の 寫眞に 就いて 斯うい うて ゐる。 卽 

ち、 『まだ 見た ことのない 場所 を 實際兒 た 如くに 其 人に 感ぜし めようと いふに は 其 地の 

寫 眞を兑 せる のが 第 一 であるが * それ も 複雜な 場所 はとても 一 枚の 寫眞 では わからぬ 

から、 幾 枚 かの 寫眞を 順序立て i 見せる 様に すると わかる であらう。 名所 舊跡 などい 

ふ處 には此 様な寫 眞帖が 出来て 居る 處も あるが、 其 寫眞帖 は 只 所々 の 光景 を 示した 許 

りで、 それぐ の 位置が 明瞭 しないので、 甚だ 効力が 薄い。 それで 此 種の 寫眞 には必 

す j 枚の 地 圆 を附 けて、 其 中に ある それ/ ;\の寫 眞の 位置と 方位と を 知らし むる 様に 

改革者と しての 子 現の 性格 及 その 隨度 七 九 



したら ば 非常に 有益で あらう と 思 ふ。』 彼の 所謂 寫生 論なる もの は、 此處 から 生れた も 

ので ある けれども、 鬼に 角、 これらの 例 を 見ても、 彼が 如何に 簡單な こと、 印象の 明 

瞭な こと を 好んだ かとい ふこと が 想像され る。 彼が 落 合 直 文 氏の 歌 を 一 つく 批評し 

たと きに、 主として 其の 印象の 不明瞭なる を 難 じたの も、 此の 性 解の 發現 である。 

斯うした 性格 は I 方に 於いて 强ぃ 意志と 結び 附 いて、 更に 彼が 何事 も 徹底し なけれ 

ば滿 足が出 來 ない、 從 つて 一 本調子で あると いふ 方面に 發展 して ゐる。 これに 就いて 

は 彼が 殆んど 十 年 近く も、 左右 を 顧る こ ともなく * 1 心 不亂に 俳壇の 爲 めに 奮闘した 

こと を 見る 丈け で、 澤山 であると 思 ふ。 

意志の 强ぃ 事、 シン セリ チイの 人で ある こと、 簡單と 印象の 明瞭なる を 好む こと、 

何事 も 徹底的に やらなければ 滿 足が出 來な いこと、 是れら の 多くの 性格 は、 改革者と 

しての 彼の 资格 を充 たす に、 十分で ある。 彼 は 生れながら にして、 改革者と しての 性 

格 を 持って ゐる といって よい。 



最後に もう 一 つ 彼の 性格の 著しい 點を 擧げて 置かなければ ならない。 それ は 非常に 

理智 的な ことで ある。 彼の 實 生活 は 勿論の 事、 彼の 藝術的 方面に 於いても * 口で は感 

情 を 重んじた けれども、 其實 極めて 理智 的であった。 彼の 告白に 依れば、 學校 時代に 

は 數舉が 不得手であった とい ふこと である。 『併し 余の 最も 困った の は 英語の 科で なく 

て 數學の 科であった。 此 時の 數學の 先生 は暖本 (有 尙) 先生であって, 數擧の 時 II は英 

語より 外の 語 は 11^ はれぬ とい ふ制規 であった。 …… つまり 數學と 英語と 二つの 敵 を 一 

時に 引き受け たからた まらない、 とう/ \學 年 試 驗の結 mr 幾何 學の點 が 足らないで 

落第した』 といって ゐる。 けれども 數舉 が出來 ない 事が、 必す しも 其 人の 理智的 性格 

を 否認す る もので ない。 然 うした 例 は 吾々 の 知人の 中に 探っても いくら も 見出す こと 

が 出来る。 子規 も擧校 時代に は數舉 が出來 なかった けれども、 其の 性癖に 於いて は、 

却って 其 反對に 極めて 理智 的な 分子が 多かった ので ある。 《せって 彼の 親友た る 五百木 

飄亭氏 は、 彼 を 評して、 『どこ を 押しても 駄目の 無い やうな 感じが する』 とか 『少 くと も 

改 *4 者と しての f 十規の 性格 及 その 賠度 A- 



我 等の 知れる 限りの 先輩 同輩 後輩 を 通じて、 彼れ の 如く 整 へ る 常識、 . より 犬なる 常 

識を持 つて 居る もの は 餘り甞 つて 見受けなかった』 とか 言って ゐ るの は、 耍す るに 彼 

の现智 的な 聰明 を 形容した ものに 外なら ない。 , 

けれども 斯うした 性格 は、 彼の 事業に とって 一 面に 於いて は、 ! S すると ころが あつ 

て も、 他面に 於いて は それ を 妨碍して ゐる やうに 思 はれる。 卽ち彼 は 他人の 藝術を 味 

ふに 鑑賞し 味 得する とい ふ 力 を 薄らげ、 又 自分自身の 創作に 於いて、 感情 を 抑へ ると 

いふ 結 を窗 らした ので ある。 更に 又、 藝 術の 內容は 比較的 閑却して、 形式の 改革に 

、王と して 專心 するとい ふ 有様で あつたの は、 彼の 理智 的な ことから 發し たもので ある。 

以上の やうな 性格 を 持った 子規が、 彼の 事業に 於いて 改革者と して 如何なる 態度 を 

採った か、 又は 然 うした 性格と 態度と は 如何なる 關 係に あるか、 とい ふこと を 私は述 

ベなければ ならない。 凡て 改革と いふ こと は 如何なる 方面に あっても * 舊 きもの、, 價 

値の 無くなつ たもの を 破 壌し、 掃滅して、 新しき もの、 價艇 ある もの を 設し、 創造 



する ことで あると すれば * 北 ハ虚に 改革^と しての 態度に も • 破壤的方面と建"3^^的方面 

と あるの が、 當然 である。 一 は 破邪 門と も 言 ひ 得るならば、 一 は顯 正門と 言っても 差 

支へ ないで あらう。 子規に も. 彼の 事業に は、 此の 二つの 態度が あつたの である。 .i 

子規の 破壤的 態度 は何麼 もので あつたか、 とい ふに それ は 實に手 きびしい、 嚴 酷な 

ところがあった。 舊ぃ價 値、 廢 れた價 値に 對 して は實に 一歩 も假借 する ことが 無 かつ 

たと 言って よい。 彼は殆 んど舊 派の 俳句 及び 俳人 を. 文擧 及び 文擧 者と して 認めない:。 

彼等に 對 して は 有 ゆる 非難、 嘲笑、 罵倒の 辭を惜 まなかった。 試みに 其の 一 例 を II 

然り ほんの 一例に 過ぎない —— 擧げ るなら ば、 彼 は 『文界 八つ あたり』 に 斯うい うて ゐ 

る。 『千 羊の 皮 は 一 狐の 腋に 如かす、 百 萬の 月並 速 は 一 個の 寒 書生 (新 俳人 を 指す) に 

及ばす、 …… 學識 無き 佳句 無き 廉恥 無き is 操 無き の 數語を 形容詞と して 現 はれ 出づ ベ 

き 今の 宗^に 對 して は、 余 は 殆んど 改良 進歩の 望み を 絶ち だり。 宗 E といへば 卑俗 を 

意味し 發句 といへ ば 陋醜を 意味す るが 如き 其の 宗匠 其發句 は 早く 之 を 地底に 葬り識 し 

改革, と し て の 子規の 性格 及 そ の 5s.i4g oil 



て、 只 其 墳墓より 生やる 新蔬 芽の 成長 を 待たん と 欲するな り。』 彼 は 月並 俳 八 叉 は ws 派 

の 宗匠 に 言及す る ごとに、 常に 斯うし た惡篤 を 加 ふるに 吝 ではなかった ので ある。 

されば 彼は舊 俳人 等に 多くの 敵 を 作り、 その 怨府の 的と なった の も、 當 然とい はな 

ければ ならない。 けれども 彼 は それが 爲 めに 決して 攻擎の 手 を 緩める ことなく * 一^ 

も假 借す る ことはなかった" 斷乎 として 自己の 所信 を 貰く ことに 邁進した。 一一 イチ ェ 

の 一 百 に、 『古き 薬 は 落ちざる ベ からす』 とい ふやうな 意味の ことがあった と St 惊 して 

ゐ るが、 寳に 彼の 斯うした 能^ 度に 依って、 舊 俳人 等 は 古き 葉の 如く 落ちなければ なら 

ぬ。 彼が 强き 意志と、 ^僞 を- 惡む 心と は、 彼の 破壞的 態度に 何の 位ゐ カを與 へた か 知 

れ ない。 

次に 彼の 建設 * としての 態度 を 述べよう。 彼 は 第一 に、 新しき 畑から、 新しき 芽 を 

出さう と 努めた。 卽ち救 ふ 可から ざる 迄に 墮 落し 靆 した^ 俳人 は、 指導しょう など 

と は 毛頭 考 へす、 其麼 もの は 全减 させる とい ふ意氣 込みで、 唯 それ 以外の 朱 だ 汚され 



ざる 素人の 書生に * 新しき 光り を與 へ、 其處 から 新しき 芽 を 育て やうと したので ある。 

如何なる 改革 も、 常に 素人の 中から 生れる。 素人 は 未だ 奮き ものに 染まないで、 新し 

き カを蓄 へて ゐる もの だからで ある。 子規が^^設的手段として、 素人た る 青年 を 味 ^5! 

として、 それ を 育てよう とした 態度 は、 必然で なければ ならぬ。 從 つて 彼 は 其の 靑年 

を 鞭撻す る こと も 一 通りではなかった。 五 fn 木 飄亭氏 は 言うて ゐる。 『彼 は …… 我輩 北ハ 

を 率ゐて 自己の 勢力下に 引 廻して やらう と 思うて 居たら しい • 從 つて それ 以後の 彼れ 

は 我輩 ども を鞭據 する こと 亦た 一通りで なく、 盛んに 讀書 をす \め* 修養 を說 き、 敎 

へ つ 励ましつ、 E 己が 前途に 猛進す ると 共に、 一 面 常に 後 を 顧みつ i 來れ くと 我 蒙 

どもに 手招き をして 居た ので ある』 と。 

それから 述設 者と しての 彼の 態度 をもう 一 つ 述べなければ ならぬ ことがある。 それ 

は 彼が 一 般の 新しい 俳人 等 を、 指導 誘 掖に努 むる と共に、 Is- に 少数の、 或は 一 1 一人の 

前途 ある も の を 極力 育 て 上げる こと を 忘れな か つ た 事で あ る。 彼 は その 人に 依って 自 

改 1*1^ としての; ナ 親の 性お 及 その sir^a 



己の事業の$:機^^<;たらしめょぅと企てたのでぁるらしぃ。 若し 斯うした 選ばれた る 信 

頼 者に して 一度 其の 信賴 すべから ざる を 暴露す る や、 彼 は 冷然と して 又 顧みようと 

しない 風が あった。 飄亭 氏が 彼と 新 海 非 風と の關 J^" に 就いて 述 ベ てゐ ると こ ろ を 兑れ 

ば、 それが よく 解る。 氏 は 曰く 『終に 世に 現る \ に 至らす して 止んだ 亡友 非 風 は、 當初 

我々 と共に 俳句に 熟 中した) 人で、 當初 子規 は 彼が 天 品の 奇才 を欣 び、 大に之 を 培養 

せんと 志した ので あつたが、 殆んど 情熱 的 感情家た りし 彼れ 非 風 は、 中途 子規と 同じ 

く 結核 性の 肪膜 炎より 直に 肺病と なった 爲め、 此の 激烈な りし 感情家 は 忽ち 自 十 H 棄 

の 人と 化し、 自 から 嘲りつ \敢 て 放縦の 行 ひ をな したので、 子規 はやが て 之を棄 てた。 

…… 併し 非 風 を兒棄 てる 際に 於け る 子規 は、 如何に 彼の 爲め悲 むだ か、 亦 如何に 親し 

き 同志 を 失うて 自己の 周 園の 落莫たる を悲 むだ か。 …… 其 友 も 一 度 落ちて 又 救 ふべ か 

ら ざるに 至る や、 彼れ は 淚を掷 つて 他の 倘 むべき を悲 みつ \ 而 かも 寧ろ 無用の 材 とし 

て 一 抛し 去った かの 風が あった。』 



それから 彼 は^子 氏に 服 を 着けた。 而 して 彼の 殁 後の 事業 を 彼 SI 子 氏に 委ねん 爲め * 

I 日虛 P 氏 を道灌 山に 誘 ひ 出して、 自らの 意の ある. 處を 吿げ、 專ら 彼に 修養 やら 讀書 

やら を說 きて 其れの 準備 を せんこと を强 ひた。 けれども 疏子氏 は 案外 冷淡で、 それ ほ 

どの 野心がない の を 知り、 彼 は 非常に 失望した。 これに 就いて 彼 は 言 ふ、 『虛 子は耍 す 

るに 文^者た らんと 望まざる に 非らざる も、 うるさき 學問 迄して 文學 者た らんと は鹏 

はざる なり。 疏子は 功名の 念な きに 非らざる も勉 して 迄 そ を 得ん こと を 願 はざる な 

り。 彼 は 野心な き 最も 淸き 人間なる べし • 而 かも 終に 我 同志の 入に 非ら す、 …… あ、 

生の 病 は 三十 餘年を 出で ざるべし。 生の 事業 は 只 短き 此の 一 代の 事 紫と して 中途に 埋 

葬 せらる. - ものと なれり、 此の gs々 の 情 誰れ に 向って 語らん。』 此爲 めに 彼 は 何の 位ゐ 

落膽し 悲哀 を 感じた か 知れない。 けれども 後に は 碧 梧桐 氏と 虛子 氏と は、 彼の 事業の 

助成 者と して、 相當の 役目 を 遂げた ので ある。 

鬼に 角靈は 改革 的 事業 を 達成 せんが 爲 めに、 信賴 すべき、 且つ 前途 ある 少數者 を 選 

改 者- J しての t^ss の は, お 及 A- の 態度 At 



んで、 それ を 極力 培養し 鞭撻して、 彼の 助成 者たり、 後繼 者たら しめよう とした 共の 

態度 は * 實に 聰明な 態度で あると 思 ふ。 此の 爲 めに、 選 まれざる 者の 不平 を 買った や - 

うな 傾きが あった けれども、 併し それ は 全く 止む を 得ぬ 次第で ある。 



第 六 章 子規の 悱論 

子規の 俳 論 は 子規の 事業に ありて、 重大な 要素と なり、 大切な 役目 を 務めて 居る も 

ので ある。 露に 藝術的 鑑賞に 目覺 めて ゐ ない 時代に あって は單 にい &句を 作り、 新し 

い 作 を 示す 丈け では、 直ちに 其の 光りが 世に 認められる もので はない、 從 つて 俳 擅に 

新しい 運動の 起る もので はない。 さう した 藝術家 は、 唯先驅 者と して 知己 を 後世に 俟 

つより 外に 仕方がない。 けれども 若し 眞に然 うした 眞藝 術の 運動 を 起して、 一 般俳擅 

を覺醒 しょうと ならば、 い 乂句を 作り、 新しい 作 を 示す と共に、 j. 方に 於いて は、 眠 

れる 一 般の藝 術 的 鑑賞 力 を 振 ひ 起し、 それ を 指導し、 藝術 上の 自らの 主張 を 明らかに 

する の 態度に 出で なければ • 共の 効 rai^ を擧 ぐる ことが 出来ない。 之 を ロマンチシズム 

に 於け るュ ー ゴ 1- の 例に 見る も、 ナチュラリズムに 於け る ゾラの 例に 見る も、 皆然ら 

ざる は 無い。 彼等 は 自ら 作る と共に、 自ら 主張した ので ある。 子規の 事業に あっても、 

子 親の 論 



彼の 俳 論 を 兌 逃がす こと は 出来な い 。 

彼 は 俳句の 本質、 地位、 傾向 等 を 論す る ことに 依って, 從來の 如く 遊戲的 職業的に 

墮 落した 俳句に、 藝術 としての 生命 を 吹き込み、 それ を純藝 術に 於け る 哲舉的 某 礎の 

上に 安 §a しょうと したので ある。 此の 努力 は、 彼の 裏 業の 生命で ある。 よし 彼の 俳 論 

は、 純藝術 的、 乃至 美舉的 見地から 厳密に 撿穀 する 時には、 不完全な ところ、 不安 當 

なと ころ、 或は 不徹底な ところが ちょい/ \見 える にしても * 鬼に 角 新う した 動機 を 

もって 爲 された ものと して 見る 時には、 犯すべからざる 權威 があって、 吾々 の 尊敬に 

價 する ものが ある。 私 は是れ から 其 間に 私の 感想 を も 少し 加へ 乍ら、 彼の 俳 論 を徐ろ 

に 叙 一しょう と S3 ふ。 

一、 美と 俳句 

私 は 前に 彼 は 俳句 を藝 術と しての 哲攀的 根柢の 上に 打ち立てよう としたと いった。 



其 意. は 俳句 を 文藝の 一 種と なし、 以 つて 俳句に 美攀の 基礎 を與 へようと したと いふ 

率に 外なら ない。 常時の 多くの 俳句 は、 俳句が 文藝 上で 如何なる 地位 を みむべき もの 

かを现 t: して ゐる ものが 械 めて 少なかった。 のみなら す 俳句 が^して 文藝 であるか 何 

うかと いふ 蔡さ へ 、 自覺 して ゐな いものが あった 位ゐ である。 叉 一 方に 於いて 當 時の 

新しい 小說家 * 批評家、 新體 詩人 等 は、 俳句な ど は 凡俗の 弄ぶべき 遊戯的の もので、 

文舉 として は實に 取る に 足らぬ もの、 或は しきに 至って は 文藝の 埒外に ある ものと 

さへ 考 へて ゐる ものが あった。 何れにしても 文學 としての 俳句の 價値 乃至 地位が * 餘 

り 認められて ゐ なかった。 

斯く 俳人 自ら も 其の 價値を 知らす、 社會 ! 般からも3^下されてゐた俳句の價爐を?i 

E し、 • それの 地位 を 向上せ しめる 爲 めに、 子規 は 俳句に 美舉的 根柢 を與 へ ようとした 

の は當然 のこと 上; 一一 II はねば ならぬ。 されば 彼の 俳 論 を 知らん とすれば、 その 极據 とし 

て 求めた る 彼の 美に 對 する 見解 を 先づ第 一 に 調べ て 見なければ ならぬ。 

子規の W 論 九 一 



彼に 依れば * 俳句 は 文舉の 一 部で, ある * 文擧は 美術の 一 部で ある、 だから 美の 標準 

は 文舉の 標準で ある。 從 つて 文舉の 標準と 俳句の 標準と は 同一 の ものである。 されば 

鎗螯も 彫刻 も 音樂も 演劇 も、 而 して 詩耿も 小說も 凡て 同 一 の 標準から 割出され なけれ 

ばなら ぬ。 斯く兑 る ことに 依って、 彼 は 俳句 を 他の 有 ゆる 藝 術と 同等の 價値、 同等の 

地位に ある こと を ii 明して ゐる。 此の 見解の 上に 立って、 彼 は從來 の無自 覺な蔡 俳人 

の 迷妄 を覺 まし 俳句 を 卑下す る 他 の 新しき 文藝 家と 鬪 つたので ある。 

然 らば 美に は 絕對的 標準と いふ ものが あるか、 此 問題に 對 して 彼 は 曰 ふ 『美 は 比; I- 

的な り、 絕對 的に 非す、 故に 一首の 詩、 一幅の 畫を 取て 美 不美を 言 ふべ からす、 若し 

之 を 言 ふ 時 は 胸裡に 記憶した る 幾多の 詩靈を 取て 喑々 に 比較して 言 ふの み』 と。 

美が 絕對 的の もので ない 事 は 確かで ある けれども、 美の 所 a が 比較に あると する 說 

は、 聊か 無现 である。 これに 就いては 當 it 美學 者な どの 注意が あつたと かで、 彼も此 

の說を 後に 撒 罔した やうで ある。 併し 美が 絕對 的の もので ない 說は、 飽迄も 主張した 



彼に 依れば 美の 標 if は • 感情に あるが 故に、 各自の 感情が 異る によって 異 つて ゐる。 

併し 其 標まは 各自が 標準と 思って ゐる だけで、 絶對 的の 標準で ない こと は 言 ふ 迄 もな 

い。 此の 外に 結對 的の 標準が あるか 何う か は 知る ことが 出来ない。 縦し おる こと を 知 

つても、 共れ の 性質 は然 らば 何う だと 言 はれても 答 ふること が 出来ない ものである。 

若し 美の 標準が 議會の 決議の 如く、 多 數決を 以て 定 むべき ものであった ならば、 その 

標準 は裘 店の 賤男賤 女が 真ぶべき、 極めて 卑俗の ものと なる であらう。 多數 決な どで 

は 美の 標準の {ル まる 道现 などがない。 だから 美の 標準 は 各自に よって 異ふ ものと 言つ 

た 方が 確かな 考へ である。 要するに 美の 絡對的 標準 は 到底 之 を 知る ことが 出來 ない。 

然 らば 美に 對 する 刺斷が 各自に 異 つて ゐても 差 ま へ はない か、 異ふ 方が ほんとうで 

あるか。 これ は 中々 重大な 問題で あり、 且つ 幾多の 美擧 者の 頭を惱 して 來た 問题 であ 

る。 カントと いひ、 シ ルレ ル とい ひ、 近く はス ペン サァゃ ギヨ ォテ とい ひ、 呰此 問^ 

を 唯 一 の 困難な 問題と しない もの はない。 今日に ありても 猶是 れに對 する 明確なる 解 

« 子規の 俳 論 九 111 



決 は 着かないで ゐる。 恐らく は將來 とても 巾々 決着 點を 見出す に 困難 であら う と 思 は 

れる。 

子規 はこれ に對 して 何う いふ 見解 を 持って ゐ るか、 彼 は 謂へ らく • 各個 人の 美の 標 

準 を 比較 すれば、 大同の 屮に 小異なる あり、 大異の 中に 小 同なる ありと 雖圣、 種々 の 

事實 から 歸納 すれば、 全體の 上に 於いて 1 永久の 上に 於て、 ほビ niM の 方向に 進んで 

ゐる やうに 思 はれる。 只 此の 歸納は 非常に 困難な ことで あるから • 動もすれば 空漠に: 

流れる の を 免る \ ことが 出来ない。 けれども 譬 へば、 『船舶の 南 牛 球から 北半球に 向 ふ 

者 I は 北 束に 向 ひ、 I は 北西に 向 ひ、 時 ありて 正 束 正西に 向 ひ、 時 ありて 南に 向 ふ も 

あれ ど、 其 結果 を 概括して 見れば、 智 南より 北に 向 ふが 如し。』 此の方 向を稱 して、 所 

謂 美の 標準と 名 づけ 得る ことが 出来よう。 だから りに 之 を 概括 的 美の 標準と 名 づけ 

て かなければ ならぬ。 

. 子規の 所論 は * 嚴密な 科擧的 考察 を!^ る ときには • 幾多の 困雞、 幾多の 破綻の 存-在 



する こと は 明らかで ある。 これで 美の 判斷の 標準が 解決し 盡 される ものなら 、カンよ 

もスべ ンサァ もとう の 昔に、 立派に 片附 けて しまって ゐる 箸で ある。 けれども 私 は t お 

で 子規の 美的 標準 論の 根柢 を 批判し 突き崩す の を 目的と する もので もなければ、 叉 ま 

れを やって ゐ る餘裕 もない。 唯 彼 I 個の 所說 一 般を 縮めて 叙述 すれば よいので ある。 レ 

唯 美學の 美の 字 も 知らぬ 當 時の 多くの 俳人の 中に ありて、 彼 は 斯く迄 美- ^いふ もの を 

考 へた 事 そのこと を 私 は 多と する ものである。 美擧 者で ない 子規に 對 して、 美の 原理 

に關 する 科學的 批評 を 企てる の は、 私の 本意で はない。 唯 私 は 子規が 俳句の 革新 を 企 

てるに 際して、 藝 術の 本體 たる 美の 原理に 迄 探り 入った こと を 尊敬す る ものである。 

俳句と いふ もの は、 斯 かる 美 を 具現す る ものである。 美 を 具現し ない 俳句 は、 俳句 

でもなければ、 藝術 でもない。 俳句 を 批評す るに 當 つて、 此の 美に 關 する 一 般 原理 か 

ら 批評すべき ものである。 從 つて 他の 小說、 繪螯、 彫刻な どと 同じ 標準に 依ってな さ 

れ なければ ならない。 

子 親 の 俳 九 五 



•fj- に 美 は 感情で ある。 美しい と 見る の は 吾々 の 感情の 發 露であって 見れば 感情 を 措 

いて 美 は 存在し ない。 其 問に 现智が 入って は 美 も 美でなくなる。 11 是れが 彼れ の、 

主觀に 於け る 美の 心理 擧的所 因の 見^で ある。 之 は 大體に 於いて <tr 日に ありて も 是認 

する ことが 出來 よう。 彼れ が 月並 排斥 論 は 此の 根據に 依って 爲 された ものである。 

彼 は 又 陳腐と いふ こと を 非常に 嫌った。 『昔 は 面白き 繪衋 なりと 評せられし 其 意匠 

も, 今日に 在りて 之 を 模倣せば 人 皆 陳腐と して 之 を 斥けて、 或は 今日に 在りて 斬新な 

り とてもて はやさる i 詩 や 小說も 後世に 至り、 同様の 意匠 を 爲す者 多からば * 終に は 

陳腐と し 厭 嫌 せられん』 と。 彼 は 此の 陳腐に は 美がない とい ふ考へ を 抱いて ゐる。 何故 

かとい ふに、 彼の 說く ところに 依れば、 美的 價値は 時代に 依りて 少 しづ 乂變遷 する も 

ので あると いふ 理由に 依る ので ある。 彼の 陳腐の 對象 は、 . 材料と 感情と を兩 つ. IF ら意 

味す k? やうで あるが、 材料 は 陳腐で あっても. 感情が 新しければ 差. 1^ ない ので ある。. 

唯 感情の 陳腐と いふ こと は、 藝 術に とって は、 何等の 價値を 生す る もので ない。 子規 



は 少し 此の間の 區 別に 對 して * 考 へが 足りなかった やうで ある。 若し 材料の 陳腐なる 

ところに 必す 美がない とい ふなら ば、 此の 有限の 世界に あって、 新しき 材料が 必ず 盡 

きる 場合 の ある こと を 想像し 得る ので あるが、 其 時 藝術は 減び なければ ならぬ 。 

唯^ は 子規が 材料の 陳腐 を も 排斥した その 心的 動機に 關 して、 同感し 得る 一 點を見 

出す ことが 出来る。 それ は 新しき 感情 を 得ん が爲 めに、 新しき 材料 を 選む こと を 多く 

の 俳人に 說 いたので あらう と 想像す る 事で ある。 人間の 感情 は それが 本來の 性質と し 

て、 材料が 古い 場合に は、 新しき 感情 を それに 依って 創造す る こと は 困難な もので あ 

る。 新しき 材料に 對 する 時には、 保守的な 人々 も、 少し 努力 すれば、 新しい 感情 を 起 

す ことが 出來 る。 此の心理的19^^情を洞察して、子規が材料の陳腐を排斥したとすれば、 

吾々 は それ を暫し 認めて やらなければ ならない と 思 ふ。 彼の 事業に とっても それが い 

い 結 架 を 齎らす ことが 出來 る。 

tt. 現の 俳 論 九 七 



一一、 俳句と 他の 文學 • 

俳句と 他の 文學と は、 同等の 地位 を むる もの、 其 間に 價 値の 輕重は 無いならば、 

俳句 ふ 他の 文 舉とは 如何なる 點に 於いて lEil 別すべき か、 如何なる 差が あるか、 而 して 

共 に 如何なる 關 係が あるか。 斯うい ふ 問題が 玆に 起って 來る であらう。 

彼 は 之に 答へ て 謂ら く、 俳句と 他の 文擧 との 區別 は、 其 音調の 異る ところに あると。 

彼の 謂 ふ 昔 調と は、 所謂 音數 律の こと を 指す やうで ある。 彼 は 曰く、 『他の 文擧に は、 

一定せ る 昔 調 有る も あり、 無き も あり、 而 して 俳句に は i 定せる 音調 あり。 其 音調 は 

普通に 五 昔 七 音 五 音の 三 句を以 つて 一音と 爲 すと 雖も、 或は 六 音 七 音 五 音なる あり、 

或は 五 昔 八 音 五 音なる あり、 或は 六 音 八 音 五 音なる あり、 其 他 無數の 小異 あり、 故に 

俳句と 他の 文舉と は嚴密 に區刖 すべ からす』 と。 

是れ を以 つて 見れば、 彼 は 俳句と 他の 文舉 との 區刖 を、 その 表現の 形式に 依って 爲 



して ゐる やうで ある。 これ は I 種の 常識 論で、 何人も 直ちに 考へ 及ぼす ところで ある。 

けれども 唯 最後の 方に 至って、 俳句と 他の 文 擧とは 厳密に 厘 別すべからず と 11 斷っ 

て 居る の は、 當 時に 於け る 彼の 一 見識で ある。 今日 『自分 は 所謂 俳句 を 作って ゐる Q 

ではない、 唯 藝術を 創造して ゐる』 とい ふやうな 意味の こと を 標榜して ゐる 俳人の 多 

くな つたこと を考 へれば、 彼れ 子規が、 當時 にあって 旣に 俳句と 他の 文 擧とは 嚴密に 

區^ すべから すと 喝破せ る 如き は、 明らかに 子規の 考 方の、 單に 1 片の 常識 論ち ない 

こと を證 明して ゐる ものと いってよ い。 

彼れ は 俳句と 他の 文學 との 區^ を、 唯 形式の 特徵に 依っての み爲 した か、 とい ふに 

決して さう ではない。 共の 內容に 依って、 俳句の 特色 及び 他の 文擧の 特色 を 1511^ して 

ゐる。 彼 は 謂 ふ、 『俳句と 他の 文擧 との 音調 を 比較して 優劣 あるな し、 唯諷 詠す る 事物 

に 因って 昔 調の 適否 あるの み、 例へば 複雜 せる 事物 は小說 又は 長篇の 韻文に 適し、 眾 

純なる 車 物 は 俳句 和歌 又は 短篇の 韻文に 適す。 節樸 なる は 漢土の 詩の 長所な り、 精緻 

子規の 俳瑜 九九 



正 岡 子 現 10〇 

なる は歐 米の 詩の 長所な お、 優柔なる は 和狄の 長所な り、 輕 妙なる は 俳句の 長所な り。 

然れ ども 俳句 全く 簡撲 精緻 優柔 を缺 くに 非す、 他の 文舉 も亦然 り。』 

內容に 依って 徘 句と 他の 文 擧と區 別す る こと は、 表現 上の 形式に 依ってす るよりも、 

更にく 闲難 である。 何故 なれば 假 りに 優柔と いひ、 輕 妙と いふ も、 それ は必 すし も 

表現 上の 昔數律 の 性質 如何から 來るも の で はな く て 、 全 く作^|„? の 內部 精神 そ の もの か 

ら來る 一 種の スタイル だからで ある。 子規の 爲 せる 此の 區 別 は 聊か 安 當を缺 くものと 

いってよ い。 

子規 は 又 俳句と 他の 文擧 との 優劣に 關 する 世間 一 般の俗 解 を 打破しょう として 斯 

ういって ゐる。 曰く、 美の 標準 は 美の 感情に 在る。 故に 美の 感情 以外の 事物 は 美の 標 

準に 影響す る もの, ではない。 多数の 人が 賞美す る者必 すし も 美で はない。 上流 社. 曾に 

行 はる \ 者 必す しも 美で はない。 上世に 作爲 せし もの 必す しも 美で はない。 故に 俳句 

は 一 般に 弄ば る i が 故に 美で はなく、 下等 社 會に行 はる \ が 故に 不実に はならない。 



要するに 一 般の 俳句と 他の 文 舉とを 比較して 優劣が ある もので はない。 漢詩を作る^^ 

は 漢詩 を以 つて 最上の 文舉 となし、 和歌 を 作る 者 は 和歌 を 以て 最上の 文學 となし * ^ 

曲 小說を 好む 者 は 戯曲 小 說を以 つて 最上の 文擧 とする。 けれども 是れは 誤れる の 基し 

きもの、 俳句 を以 つて 最上の 文 擧と爲 す 者 も 亦、 同じく 誤って ゐる。 是れ等 凡ての も 

の は 文學の 標準から 言へば、 同等の ものであると。 

此の 見解 は、 前に も I 寸 述べて 置いた ので あるが、 如何にも 其 通りで ある。 今日に 

ありて は此麼 こと を敎 へられなければ 知らないで ゐる やうな 者 は、 恐らく は 一 人 も あ 

るまい。 けれども 當 時に ありて は、 斯うした 常識的な こと を も 聲を大 にして 叫ばな け 

れ ばなら ない 程に、 俳人な り、 其 他の 一般 文擧者 なりが 幼稚であった こと を 思へば、 

まるで 隔世の 感が ある。 而 して 今日、 俳句 を藝 術の 一種と して 他の 藝 術と 同じ 地位に 

ある ものである 事 を、 少しも 不思議と も 何とも 感じない 程に 迄な つたの は、 子規の 當 

^の 努力が ぁづ かって 力あった? y を 思へば、 子規が 今日から 見て 常識的な 言葉 に 過 

現 の 俳 1 C 二 



. ^岡 r?> 規 . loll 

ぎない やうな こと を 叫んだ のに 對 して、 尊敬 を拂 はすに は 居られない。 若し 子規の 努 

力が 無かった ならば、 而 して 第二 第三の 子規が 其 後出なかったならば、 俳句なる もの 

は、 今 nl も 猶藝術 上 の 地位が 得られな い でゐ たか も 知れな か つ た。 

. 三、 俳句の 種類と 季題 

彼 は 俳句の 蹄 類と いふ 表題 を 指げ て、 その 著 『俳諧 大要』 の 中に 論じて ゐる。 けれど 

も 彼の 稀 類と いふ 意味の 中には、 俳句の 耍 素と いふ こと を も 含めて ゐる やうで ある。 

これ は 聊か 妥當 でない やうな 感も あるが、 併し 鬼に 角該 表題の 中で 言って ゐる こと を 

述べようと 思 ふ。 

彼 は 曰く 『俳句 を 分ち て 意匠 及び 言語 (十 I! 人の 所謂 心 及び 姿) とす。 意匠に 巧拙 あり、 

言語に 巧拙 あり、 一 に 巧に して 他に 拙なる 者 あり、 兩者 共に 巧なる 者 あり、 兩^ 共に 

拙なる^ぁり、意ほと言語とを比較して優劣先後ぁるなし、只意匠の美を以って勝る^1<; 



あり、 言語の美を以って勝る^«;ぁり。』と。 これ は 俳句の 種類でなくて、 俳句の 要素に 

關 する 議論で ある" つまり 內容と 外形 * 若しく ば 內容と 表現 を 指す ので ある。 

丫 規は义 謂ら く、 意匠に は 勁 健なる も あり • 優柔なる も あり、 壯大 なる も あり、 繊 

細なる も あり • 雅樸 なる も あり、 婉麗 なる も あり * 其 他、 幽遠、 平 or 莊重、 輕快、 

奇警、 淡泊. 複雜、 純、 眞 面目、 滑稽 等區 別し やうと すれば 幾多の ものが ある。 又 

言語に も それらの 15^ 別が ある。 勁 健なる 意匠に は 勁 健な 言語 を用ゐ なければ ならない、 

優柔なる 意匠に は 優柔なる 言, 語 を用ゐ なければ ならない。 共 他、 雅樸、 平易、 滑稽 等 

^それに 應 じて、 言語 も それに 適 ふやうな もの を 選まなければ ならない と。 

斯うした 區別 は、 彼が その 理性的 理智的 性格の 好みから 來 たもので、 聊か 區別 せん 

が爲 めに ® 別した 感が 無いでも ない。 物 好な 一 種の リ トリシア ンの爲 す ことで ある や 

うに も m 心 はれる。 從 つて 無理な 分類 をした ところが ある。 例へば 意匠と 言語と を 全く 

刖 物の やうに 區 別した ところな ど は、 明らかにさう である。 如何なる 言語で も、 それ 

:ャ S の W 論 -03 



正 子 現 10 四 

が 何等かの 意味 を 持つ 限り 意匠の 無い ものがない、 と共に 如何なる 意匠で も, それが 

吾々 の 心理に 明瞭す る爲 めに は、 言語 (文擧 にあり て は) を 持たない もの はない。 今日 

にあり て は、 意匠と 表現と は 全く 同 一 の もの だと 主張す る 哲學者 さへ 現 はれて ゐる位 

ゐ である。 例へば 伊太利の ク n ォチ H 氏の 如き は それで ある。 だから 意匠と 言語と を * 

子規の 如く 餘 りに 明確に 151! 別す る こと は 聊か 考へ ものである。 けれども 當 時に ありて 

は、 美學も Isi 學 もさう 進歩して ゐ ないし、 文壇 一 般の 知識 もさう 進んで ゐ なかった 

ので あるから、 今: :! の 進歩した 立場から 許り、 さう 責 むる わけに も 行かない。 けれど 

も 鬼に 角、 聊か 區別 せんが 爲 めに 區^ した かの 如き 觀の ある こと は V ザ はれない。 だか 

ら 此の 刖は 子規の 事業の 中心に 對 して は、 さう 深く 役立って ゐ ない。 

彼 は 更に 又 曰く、 意匠に も主觀 的なる も あり、 容觀 的なる もの も あり。 主觀 的と は 

心中の 耿況を 詠 じ、 客觀 的と は 心象に 映り 來 りし 客觀 的の 事物 を 其 儘に 詠す る もので 

ある。 又 意匠に 天然 的なる も あり、 人事 的なる も ある。 人事 的と は 人^ 萬般の 事物 を 



詠 じ、 天然 的と は 天文 地理 生物 礦物 等總て 人事 以外の 事物 を 詠す る ものである。 以上 

各種の 區刖皆 優劣 ある もので はない、 一人に して 各種の 變化を 爲す者 あり、 一人に し 

て 一種に 長ず る 者 も ある。 

次に 子規が 俳句の 季題と いふ もの を、 何う いふ 風に 見て ゐ るか * 何う いふ 意 に 於 

いて 其の^ 在の 理. H と 意義と を 認めて ゐ るか。 これ を 述べて S5I かなければ ならない。 

抑々 季題なる もの は、 西洋に も 無い もので あり、 日本に あっても、 他の 文 藝には 無く、 

獨り 俳句に のみ 古から 傳 へられて 今日 迄 取扱 はれて ゐる。 和歌に は嘗 つてあった 事 も 

あるが、 併し 俳句の 如く 決して 束縛 的の ものではなかった やうで ある。 今::: にあって 

は、 俳句に さへ 季題の 無意義なる を 論じて 排斥す る 人々 が 出る やうに なった" けれど 

も 全然 捨てられ たので はない。 子規の 當降 にあって は、 勿論 季題 § 斥す る 俳人 は 未 

だなかった やうで ある。 

子規 は 俳句に 於け る 印象 明瞭と いふ こと を 主張し、 其れに 關聯 して 聯想と いふ こと 

子規の 俳 論 一 OS 



正 岡 子 現 -OA 

を 非常に 重大視した。 1- 此の 事に 關 して は 次 項に 於いて 委しく 述べる こ とに する 

11 。 彼の 季題 論は卽 ち此處 から 生れる ものである。 

俳句に 於いて 何故 季題が 必耍 であるか、、 これに 對 する 子規の 考へは 斯うで ある。 俳 

句 は 聯想 を 必要と するならば、 其の 聯想 を 起す に は、 季題が ある ことが、 何の 位ゐ. 便 

利 だか * 何の 位ゐ 明瞭 性 を 助ける かわからない。 季題が ある ことに 依って • 吾々 は 俳 

句に 於け る 季節の 聯想 を 最もよ く爲す ことが 出來 る。 若し 季節が 無かった ならば * 舂 

の 時候 か 夏の 時候 か、 或は 秋 冬の 時候 かよく わからない。 例へば 一 個の 山水の 景色 を 

詠 するとす る。 此の 中に 若し 梅と か茱の 花と か を 詠み 込むならば それに 依って 共の 山 

水が 春の 場景 である こと を 知る。 若し 其 巾に 青葉と か 卯の花と か を 詠み 込むならば、 

それが 夏の 景色で ある こと を 直ちに 想像す る ことが 出來 る。 

耍す るに 季題の 價値 は、 其の 俳句に 於け る 時 聯想 を 明瞭なら しむる ところに あ 

る。 これ 丈け で 季題の 意義と 價俊 とが 十分 知得 さる. -の である。 されば 季題の 無い 雜 



の 句 は、 よし 俳句と して 作らる X こと ありと する も * 『四季の 聯想な きを 以て、 其の 意 

味淺 滞に して、 吟誦に 堪 へざる もの 多し』 とい ふわけ になる。 

然 らば 時間 的に のみ 題 を 作らないで、 空間 的に も 題 を 設ける のが 至當 ではない か * 

と 問 ふ 人が あるか も 知れない。 けれども これ は 少し 無理な 註文で ある。 『時間 は 年々 同 

I の 變化を 同一 の 順序に 從 ひて 反復す るが 故に、 之 を 制限して 以 つて 命名すべし。 然 

れ ども {4; 問の 變化は 毫も 順序なる 者 あらす して、 不規則なる ものな り。 例へば 嶽河海 

郊原 m 野 一 も 順序 ある 者な し。 故に 之に 命名 せんと 欲せば 人間の 見聞し 得る 所の 一 々 

に 命名せ ざるべ からす。 地名 是 なり。 地名 は 時 問の 區 別に 比して 更に 明瞭なる l5i 別な 

れば、 俳句に 地名 を 川うる は、 最簡 ssf なる 語 を 以て、 最錯雜 なる 形象 を 現す の 一 ^^法 

なりと 雖も、 奈何 せん 一 人に して 地球上の 地名と 其 光景と を盡く 知る を 得す、 且つ 共 

區刖 明瞭なる が 故に、 之 を 用うる の區域 甚だ 狹隙 を感 するな り。 …… 其 地 を 知らざる 

者に は 何等の 感情 を も 起さし むる 事 難し。 卽ち 四季の 變化は 何人も 能く 之 を 知る と雖 

子規の 俳 論 一 七 



正 岡 子 現 】o< 

も、 束 京の 名所 は 西 京の 人 之 を 知らざる 者 多く、 西 京の 名所 は 東京の 人 之 を 知らざる 

者 多き が 如きな り。』 

從 つて 子規の 考 へに 依れば、 季題 は 題の 如くして、 眞の题 ではない。 例へば 內容を 

それに 束縛され て、 其 題 をのみ 中心とする やうな 俳句 を 作る 必耍 なく、 只 其の 題が、 

内容に 對 して 降 間 的 卽ち季 is の 聯想 を與 へさへ すれば 十分で ある。 『俳句の 題 は 只 だ 其 

題 を 詠み 込みて だに あらば 可とす。 また 其の 主たると 客た ると を 問 はす。 r ての 原因 は 種 

種 あれ ども 主として 題詠の 區 域を廣 くし 自由 に 思想 を はたらか しめんと する にあり。』 

と 言って ねる。 

四、 俳句と 聯想、 印象、 其 他 

彼の 性格 は 非常に 理性的で ある こと を 私 は 前に 述べた。 理性的で ある こと は、 知識 

的で ある こと を豫 想す る。 此の 知識 的 性向 は、 唯單に 論文の メソ ー ドの 上に のみ 止ら 



ないで、 更に 俳句 其 もの \ 性質に is する 見解の 上に も 現 はれて 來てゐ る。 

彼 は 美を以 つて 感 SE の所產 である、 從 つて 俳句 も 亦 感情 を 基と しなければ ならぬ こ 

と を、 力 を 込めて 唱道して ゐる。 けれども 彼の 謂 ふ 所の 感情 は、 少し 徹底し ないやう 

なと ころが ある。 これ は 此の 一 項で 追 ひ/ \述 ベる。 彼 は 美 そのもの \ 解釋を 感情の 

所産と 說き 乍ら、 下って 俳句 そのもの.^ 議論と なると、 何う も 知識 的、 非 感情的の も 

の を カ說 して ゐる やうに 思 はれる。 

俳句 は 素と 短き 形式 を 持って 生る、 ものであるから、 小說ゃ 戯曲の 如く 複雜 なる 內 

容を 完全に 現 はすこと が 出来ない、 と 彼は說 いて ゐる。 彼の 考へを 次に 槪 略して 述べ 

て 見る。 此の 簡單 なる 形式 を 以て、 複雜 なる 內容を 詠 じょうと すれば、 多く は 失敗に 

終る の. が 常で ある。 されば なるべく 簡單 なる 思想 や 材料 を 取扱 はなければ ならない。 

複雜 なる 美と 簡單 なる 美と 優劣が あるので ないから、 簡單 なる 美 を 取扱った からと 

て. 俳句の 價値は 少しも 減じない。 俳.? に は 聯想と いふ ものが ある。 それが 俳句に 於 

. 子規の 俳 論 10 九 



ける 簡單美 をして 一 曆價俺 ある ものたら しめて ゐる。 此の 聯想 こそ は 俳句の 特色で あ 

る。 彼 は 謂ら く、 『蝶と い へ ば翩々 たる 小 羽蟲の 飛び 來る 一 個の 小景 を 現 はすの みなら 

す、 春暖 漸く 催し 草木 僅かに 萌芽 を 放ち、 菜 黃麥綠 の 間に 三々 五 々士女の 嬉 遊す るが 

如き 光 £ーれ を も 聯想せ しむるな り。 此 聯想 ありて 始めて 十七 宇の 天地に 無限の 趣味 を 生 

す。 故に …: 聯想 を 解せ ざる 者 は 終に 俳句 を 解せ ざる ものな リ。 此の 聯想な き 者、 俳 

句 を 見て 淺薄 なりと 言 ふ 亦 直な り。』 と。 

卽ち 聯想 は 俳句の 唯 j の 補助 意識で ある。 これな くして、 俳句に は 何等の 生命が な 

い。 何等の 藝 術的價 値がない。 けれども 千規は 更らに それに 印象の 明瞭と いふ こと を 

附け 加へ て 居る。 聯想 は 印象の 明瞭に 到達す る 一手 段で あるかの 如く 彼は考 へたので 

ある。 又 印象の 價 値に 就いて、 彼 は 言って ゐる C 『印象の 明瞭 を 尙ぶ者 は 形 體を尙 ぶな 

り、 餘韻を 尙ぶ者 は 精神 を尙ぶ なり。 形 體の美 は 直ちに 五官が 感得す る 美な り。 精神 

の 美 は (初 は形體 より^で 來 りし 者 あるに もせよ) 知識に よって 抽象せられ たる 無形の 



美な り * 五官の 美 は (程度の 多少 は あれ ど) 爺 婆に 至る 迄 之 を すれ ども、 無形の 美 は 知 

識 ある^ 聯想 多き 者に 限り て 之を感 すべし。 此 故に 世人 往 々 餘 韻を以 つ て 最上 の 美と 

なす。 知識 を 交へ たる 美が 3^ して 最上の 美なる か 否か 之 を 知らす。 假 りに 之 を 最上の 

美と 定めん に y 猶 ほ形體 の 美 を 度 外に 置く こと 能 はざる は 論を续 たす。 餘韻を 主と す, 

る もの も 全く 形體の 外に 立 つ ベ き 者に 非れば、 普通の 場合に 於て 出來 得る 限り は 印象 

を 明瞭に する の 必要 は あるな り。 尙ほ 一 歩を讓 りて 論ぜん に、 少 くと も餘韻 無き 句 を 

評する に當 りて 、印象 明瞭 を 標準と して 其 美 を 判定す る は 最も 必要なる 事なる べし。』 

彼が 明瞭なる 印象 を、 重大視す る こと は、 彼の 性格に ひそむ 寫生的 傾向、 乃至 は 重 

1 的 性 裤を度 外に 置; S ては考 へられない。 彼の 性向に 溯って 見る に、 彼 は 生れな が 

ら にして 人事 的 現象よりも、 天然 的 事象 を 好む やうに 出来て ゐる。 此の 事に 就いては 

彼 自ら も吿 白して ゐる。 而も 彼が 天然 的 事象 を 好む の は • それから 受ける 人間的 感情 

の 發動を よろこぶ のではなくて、 天然 的 事象 そのもの . ^形體 を如實 に觀 照す る こと を 

子規の 俳 論 ニー 



好む ので ある。 此の 事に 關 して は、 後に 彼の 寫生文 を 論す る 時に 委しく 述べる が、 鬼 

に 角 彼の 寫生的 傾向が 彼の 性格に 根ざして ゐる こと を 一 ; 一目して 置かなければ ならぬ。 

斯く 彼が 客觀 の形體 そのもの を觀 照 する こと を 好む とすれば、 その 形體の 印象の 明 

瞭 ならん こと を 望む の も、 決して 偶然で はない、 彼の 印象主義と 寫生 論と は、 同 一 の 

源 S 水から 發し たものと 言って よい。 

私 は 前に 彼が 感情 を 尊重し 乍ら、 其實 極めて 知識 的で あると いったの は此點 である。 

理窟 許りが 知識で はない。 形體 そのもの を りの. ま \ に 受け入れる こと、 卽ち觀 照 す 

る こと も 知識 的 作用で ある。 これ を 理解す るに は、 少し 面倒で * ^擧 乃至 心理 擧の領 

域に 迄 手 を觸れ なければ ならない。 さうな ると 此の 一 小節で は 迚も 出來る もので ない 

から 玆には それ を屮 止して 置く が、 唯 ニー 目 だけ 云 はして 貰へ るなら ば、 形體を その 有 

るが ま、 に 受け入れる こと、 卽ち觀 照す こと は 心理 學 的に は 知覺の 作用で ある、 認識 

論 的に は 直觀の 作用で ある こと, 從 つて それ は 吾々 の 主觀に 於け る 感情の 殆んど 加 は 



ら ざる ものである こと 丈け を 述べて 置く。 彼 は 『人々 に 答 ふ』 (其ノ 十) に 於いて、 『自然 

の 美を感 する も械 -5 情なり。 感情 を 捨て 自然の 美 を 求むべき やうな し』 と 言って、 自然 

の 形體を そのお るが ま >- に 詠す る も * 感情の 作用の 如く 言うて ゐる。 けれども それ は 

感情の 作 いではなくて、 知識 的 作用 * 之 を 心现舉 的に 一 百へば 知覺の 作 用 である。 藝術 

上に 於け る 自然主義 は、 感情 を 押へ て、 唯 現 實を如 寳に兌 詰む る ものであると いふ 明 

治四十年前後の我國の自然主義^1^の主張は* 科學 的に は 説って ゐ ない。 子規が^ 觀を 

如 實に表 はすの も 感情の 作用で あると いふ 主張 は、 科擧 的に 誤って ゐる ものである。 

從 つて 彼の 所謂 印象の 明瞭と いふ こと も、 若し 客觀を 有る がま.^ に 受け入れる 爲 めの 

ものである ならば、 知識 的 作用に 過ぎない ので ある。 

それから 彼 は 俳句に 於け る 配合 論と いふ もの を說 いた。 これ は 纏つ た 議論と してで 

はなかった けれども * 晩年に 至って 機. W ある 毎に、 美的 配合 をカ說 したやう である。 

彼 は 題 以外に 餘り目 ぼしい 配合 物の ない 句、 例へば 

チ規の 俳 論 1 ニー 一 



仰向けに 落ちて 流る 椅 かな 

勝 鷄の物 狂 はしき き ほひ かな 

の 如き を 斥けた、 而 して 題に 新しき 他の 事物、 而も その 題と よく 調和す る もの を 持つ 

て來る こと を 主張した。 例へば 

春風 や 祇園 淸水 孔雀 茶屋 四 明 

舂水ゃ 橋の 下 ゆく 川蒸汽 把 栗 

の 如く、 題 以外に 配合 物の ある もの、 而も 其の 配合 物が よく 題と 調和した もの を 採つ 

たので ある。 これ は 純藝術 論の 立場から 見たら 何う いふ 價 値が あるか、 一寸 疑問で あ 

るが、 鬼に 角 客 觀的藝 術、 CI 然 主義 的藝術 11 殊に 題と いふ ものに is 縛され てゐる —— 

の 行 詰 つた 時には 止む を 得 ざ る , 或は 赴きお い 到^55點 であるか も 知れぬ。 

彼 は 又 俳句に 於け る ! 和歌 * 文章 等 を 批評 するとき にも これが 出て 來 るが 11 調 

子め たるみ を 排斥して、 成る 可く 引締る こと を 力説した。 卽ち 表現の 緊張で ある。 こ 



れも li つた 議論と してで はない けれども、 彼が 具體 的に 俳句 を 批評す る 時には、 よく 

此の タルミ を拂 斥す るの 說が 現れて 來る。 時に 依って は 此の 調子の タルミ 如柯に 依つ 

ての み、 其 句の 價値を 否定して しま ふやうな 場合 さへ ある 位で ある。 けれども 此の タ 

ルミ 排斥の 藝術論 的 說明は 彼 は 餘り與 へて ゐ ないやう である。 

五、 芭 瘥 論と 蕪 村 論 

芭 蒸の 藝 術の 特色 は現實 生活 を 超越して、 佛敎的 思想 を 加味した 幽玄、 閑寂と いつ 

たやうな 一 種 神秘的 乃至 象徵的 色彩 を 持って ゐる ところに ある、 と は 多くの 芭蕉 を 論 

する 者の I 致す る觀 察であった。 それの 代表的 俳句と して、 - 

古池 や 蛙 飛び込む 水 の 音 

枯 枝に 烏のと まりけ り 秋の 暮 

等が 第一 に擧 げられ るの を 常と して ゐた。 叉 それが 芭蕉の 藝 術の I 特色 を爲 して ゐる 

子規の 俳ぬ . 二 ifl 



こと は、 子規が 何う 云 はう とも 事 富で ある。 

けれども それが 芭蕉の 全部で あるか 何う か * 他に それ以上の 特色が ないか 11 とい 

ふ 問に 對 して * 子規の 答へ たと ころも 亦、 全く 否定す る 事が 出來 ない。 然 らば 子規 

は I 巴 燕の 如何なる 點を 特色と 見た か、 とい ふに それ は 豪壯の 句、 雄 健の 作に あると し 

たので ある。 

. 五月雨 を 集めて 早し S 上 川 

夏草 やつ はもの 共の 夢の 跡 

猪 も 共に 吹かる」 野 分 哉 

塚 も 動け 我 泣く 聲は 秋の 風 

荒海 や 佐 渡に 横 ふ 天の川 * 

是 等の 句 を 見る に、 僅か 十七 字の 中に、 如何に 壯大な 意匠が 表 はされ てゐ るか、 如 

何に 雄 健な 內 1 おが 含められて ゐ るか、 是れ SJ 蕉 ならでは 詠 じ 得ぬ ところで ある。 蒸 



の藝 術の 眞の 特色 は玆 にある、 と 子規 は 喝破して ゐる。 此の E- 蕉論は 子規の ー兒識 か 

ら 生れた ものであって、 多くの 芭蕉 論の 中に * 嶄然 頭角 を 現 はして ゐる ものと いって 

よい。 

子規の 芭蕉 論が、 單に 異色 ある ものと いふ 許りで はない、 彼の 事業に とっても、 決 

して 閑却す る ことの 出來 ない ほど、 重大な 意義 を 持って ゐる。 それ は 何かと いへば • 

彼 は 笆蕉を 論す る ことに 依って、 當時 全盛の 舊派 俳人 等に 一 大 痛棒 を 加へ、 俳句 を鑑 

賞す るに は 如何なる 態度 を 採らなければ ならぬ か、 如何に 鑑賞すべき もの か、 とい ふ 

こと を敎 へる の 機 會を與 へたから である。 

當 時の 舊 派の 俳人、 殊に 宗匠と か 何とか 言 はる、 俳人 等 は、 芭蕉と いへば、 唯 其 名 

をき いた 丈け で 如何なる 句 も、 立派な ものである * 否 神聖に して 近づくべからざる も 

のの 如く 崇め 奉って ゐた。 其 間に 決して 批評が ましい 言葉 を 許さない。 さう かとい つ 

て 彼等 は 眞に芭 駕の句 そのもの X 味 ひ を 鑑賞す る 力 もな. S ので、 彼等 は: H ハの 句に 何等 

子 現 の 诽^8 、 ニセ 



かの 理窟 を附 加して 自分の 都合の よい やうに 極めて 勿體 ぶって 解釋 して 世人に 示して 

ゐ ると いふ 有様であった。 例へば、 

物言へば 脣 寒し 秋の 風 

の 句に しても、 其の 中に 世間 的な 一種の 道德的 意味 を强 ひて 寓 せしめて、 意味深長な 

るかの 如く 解釋 して ゐ るので ある。 

子規の 甚 しく 嫌った の は、 排斥した の は 此の 解釋 法で ある。 俳句 は 其 麼こぢ つけの. 

解釋 をすべき もので はない、 飽迄も 表現 上に 露 はれた 其 ま \ の 意匠 を、 其 ま \ に 味 ふ 

べき ものである。 決して 理知的、 寓窓 的解釋 をして、 牽强附 會の說 を 立つべき もので 

はない。 斯 く解釋 する こと は、 芭蕉 其 人の 眞の價 値 を 知る 所以で はない。 唯 ありの ま 

ま を 解釋し • りの ま X を 味へ、 これが 子規の 考へ である。 

子規 は 其の 性格と して、 決して 盲目的に 事物の 絕對的 權威を 認める こと は 無かった。 

これ は 如何なる 方面で もさう であった。 必す彼 は 一定の 見解 乃至 主張 を 持って、 それ 



に 依って 事物の 價値を 1^ 斷 するとい ふ 風が あった。 從 つて 動もすれば 事物 それ 自身の 

持つ 特色と か 味 ひと か を 公平に、 . ^觀 的に 捕捉す る ことが 出來 ない 場合 も ある 位で あ 

る。 けれども 一 定の 見識 を 持って 價 値判斷 をす る こと は、 決して いこと ではない。 

寧ろ 彼の 特色で あると いってよ い。 

斯うした 性格から して、 彼は舊 俳人の 如く * 同じく 芭蕉の m 値 を 認める にしても、 

決して 盲:! 的で はなく、 彼 I 個の 見解に 從 つて、 その 價使を 認めた ので ある。 だから 

舊 俳人の 芭蕉に 對 する 價値感 の 内容と * 子規が 芭蕉に 對 する 價値感 の 內容と は、 其 間 

に 雲泥の差が あるの も當然 である • 

斯くて 彼 は 自己 獨特の 見解から して、 芭蕉の 句に は、 悪 句 駄句が 極めて 多い。 おん 

ど その 『過半 は .oi- 句 駄句 を以 つて 埋められ、 上 乘と稱 すべき もの は、 共の 何十 分の I 

たる 少數に 過ぎす、 否 僅に 可なる もの を 求む る も 塞々 晨屋の 如し』 といって ゐる。 是 

れに 依って 彼 は、 舊 俳人 等の 芭 焦に 對 する 盲目的 崇拜を 打破し、 一 掃した ので ある。 

現の 俳 一一 九 



此の 一 見惡 篤の 如き 彼の I 巴蕉論 は- 喧しく 世論 を 喚起し、 殊に 彼の 舊派 俳人の 宗匠 

の 如き は、 書生論 畢竟 何す る も のぞと いった やうな 冷笑 を それに 浴せ かけた 位で ある。 

けれども 自信の 强き 彼れ 子規 は、 決して それ 位の ことに 腰 打ち 挫いて しま ふやうな こ 

と はなく、 それより 益 々自己の 所信に 向って 邁進した。 彼が 明治 二十 六 年 十一月 『日 

本 新聞』 にこの 色 蕉を 論じた る 『芭蕉 雜談』 を拇げ てから は、 I 意專 心、 舊 俳人 等の 

迷妄 を 打破す る ことに 努力した ので ある。 

芭蕉の 次ぎに 彼れ が 見出した る 俳人に 蕪 村が ある。 彼れ は 芭蕉の 眞の價 値 を 疑 ふ も 

ので はない けれども、 一 度 蕪 村 を 見出した る 彼れ は、 燕 村を以 つて、 笆蒸 以上の 俳人 

である こと を 認識す るに 至った。 彼 は 『芭蕉と いふ 名 は 徹頭徹尾 尊敬の 意味 を 表した 

る 中に、 咳 唾珠を 成し、 句々 吟誦す るに 堪 へながら、 世人 は 之 を 知らす、 宗匠 は 之 を 

尊ばす, 百年 間 空しく 瓦礫と 共に 埋められて 光彩 を 放つ を 得 ざり し 者 を 蕪 村と す』 と 

いって ゐ る。 



彼の 見方に よれば、 芭蕉に ありて は 其の 過半が 駄句 惡句 のみで、 に 採る に 足る ベ 

き は 共の 幾 十 幾 百の 中の 一 句に 過ぎない ので あるが、 蕪 村に 至りて は、 百 中 百 迄 悉く 

立派な 名句で ある。 完全な 藝術 である。 何麼 俳人で も 名句が ある 代りに 屑 も ある もの 

だが • 殆んど 蕪 村に あって は 屑がない。 而 して 芭蕉に ありて は 僅かに 芽が 吹いた 許り 

のい-^ 方面が、 蕪 村に 至りて 十分に 花 も 開き • 實も 結んで ゐる。 

以下 少しく 子規の 蕪 村に 對 する 具 體的 批評 を 述べ て兒 る。 美に 積極的 美と 消極的 美 

とが ある。 積極的 美と は 其 意匠の 壯大、 雄渾、 勁 健、 艷麗、 活澄、 奇警なる もの をい 

ひ、 消極的 美と は 其 意匠の 古雅、 幽玄、 悲慘、 沈靜、 平: \ ぶなる もの をい ふ。 概して 言 

へば、 前者 は 西洋の 美術 文學に 多く、 後^ は 東洋の 美術 文學に 多い。 芭蕉の 俳句 は 主 

として 消極的 美の 意匠 を 用 ひて ゐる。 而 して 積極的 美 は 僅かに 其の 一端 を 現 はして ゐ 

るに 過ぎない。 例へば 『猪 も 共に 吹かる、 野 分かな』 の 如き は それで あ. る。 けれども 蕪 

村に 至って は、 其の 積極 美が 十分 俳句の 上に 發禪 されて ゐる。 共の 例 をい ふなら ば、. 

チ K の访 jl I 一二 



『 I 年 四季の 中 养复は 積極に して 秋 冬 は 消極』 であるが、 燕 村 は 最も 夏 を 好み 又 夏の 句 

は 最も 多い のを以 つて 見ても わかる であらう。 其の 佳句 も 亦 夏の ニ季に 多い。 試に 

消極的なる 芭蕉と 積極的なる 燕 村との 句 を 擧げて 見る。 

尾 張より 東武に 下る 時 

牡丹 蕊深 くわけ 出る 蜂の 名殘哉 芭 蕉 

桃 隣 新宅 自赘 自黉 

寒から ぬ 露 や 牡丹の 花の 蜜 同 

牡丹 剪って 氣の衰 へし 夕 かな 燕 村 

地 車のと ^< ろと ひ く 牡丹 かな 同 

方 百 里 雨雲よ せぬ 牡丹 かな 同 

金屏 のかく やくと して 牡丹 かな 同 



波 翻 舌 本 吐 紅蓮 

閻 王の 口 や 牡丹 を 吐かん とす 蕪 村 

以上の 句に 見る も、 芭蕉の 意匠が 弱々 しいに 反し、 蕪 村の 意匠が カ强 いもの を 持つ 

てゐる ことが わかる。 、 

又 美に は 15^ 觀的 美と 主觀的 美と が ある。 文 舉臾を 調べ て 見る に 上世に 溯る 程 主觀的 

::. 美 錢揮 1^. た 文舉が 多く、 後世に 來 るに 從 つて、 客 觀美を 現 はした 文舉が 多い。 此 

の 中で、 芭蕉が 主 觀美を 俳句に 現 はした の は、 . ^巴蕉 が 未だ 上世の 傅 習を脫 しないから 

である。 けれども 蕪 村に 入りて、 客觀的 意匠が はっきりと 俳句の 上に 取扱 はる" やう 

になった ので ある。 子規の 此の 客觀的 美と は 今日の 霄 葉で 言へば * 一種の 素朴なる 自 

然 主義 を 意味す る ものと 見て 差 支 へ ない。 

蕪 村の 句に は、 主觀を 取り入れない • 全くの 客觀的 美の 發 現に 於いて 成功した も 

が隨分 ある。 而 して 其れ 結 粟と して 繪畫 的になる ものが 多い。 

チ^の 俳设 --5 



木瓜の 陰に 額た ぐ ひすむ 雉子 かな 蕪 村 

釣鐘に とまって 眠ろ 胡蝶 かな 同 

小 原 女の 五 人 揃うて 袷 かな 同 

て ら /\ と 石に 日の iii る枯野 „Ha P 

水鳥 や 舟に 茱を洗 ふ 女 あり 同 

以上の 例に 見る も 『 I 事 一 物 を畫き 添へ ざ f 输 となるべき 點に 於て、 蕪 村の 句 は、 

燕 村 以前の 句よりも 更に 客觀 的』 である。 

それから 蕪 村の 俳句の 特色と して、 人間 を 巧みに 取扱った ところ を も舉げ なければ 

ならない。 天然 は簡單 であるが • 人事 は複雜 である。 天然 は 沈默し 人事 は 活動す る。 

簡單 なる もの、 沈默 せる ものに 就いて 美 を 求む る は 易く、 複雜 なる もの、 活動せ る も 

の は 難い。 俳句に 於いて 殊に 然り である。 俳句に 人事 的 美 を 詠 じたる 荠少き 所以で あ 

る。 芭蕉 は 寧ろ; 大然に 重き を 置いた。 其 角 嵐 雪 は 人事 を寫 さんと して 端 無く 拮屈贅 牙 



に陷り * 或は 人 をして 之 を 解す るに 苦 ましむ るに 至る ので あるが * 獨り蕪 村 は 何の 苦 

もな く 進んで、 思 ふま i に 人事 美の 中に 『濶歩 横行』 した。 而し てこれ は 蕪 村 以後に あ 

つても、 餘り 此の方 面に 手 を 着けた 者が 少な. い。 

行く春ゃ選^!^:を恨む歌の主 蕪 村 

味 曙 汁 をく はぬ 娘の 夏 書かな 同 • 

齚 つけ て. や がて 去に たる 魚屋 かな 同 

靑 梅に 眉 あつめた る 美人 かな 同 

沙彌 律師 こ ろり /\ と 衾 かな 同 - 

旅 芝居 穏麥が もとの 鏡 立て 同 

之 等の 句 を 見る に、 人 問と いふ ものが、 易々 と 十七 字の 中に 丸め込まれて ある。 人 

事と か 人間と かの 嫌 ひな 子規が、 何故 燕 村の 斯うした 方面 を、 價値 ある 蕪 村の 特色と 

して 感服して ゐ るか —— とい ふ 疑問に 突當ら ざる を 得ない。 甚だ 矛盾して ゐる. やうに 

子 E. の 二 li 



思 はれる。 けれども 子規が 例に 擧 げた 是 等の 句 を 見る と、 同じく 人間 を 取扱って みる 

と は 言 ひながら、 自然 物の 如く、 純客觀 的に 爲 されて ゐる のが 眼に 〈滑く であらう。 彼 

が稱 すると ころの 人 察 美に 向って、 『何の 苦 もな く 進み 思 ふま \ に濶歩 横行』 する こと 

は、 人事 を 純客觀 的に 取扱 ふこと である やうに 思 はれる。 

美に は 又資驗 的と 理想的との 一 一種が ある。 實驗 的と は 人間の 經驗し 得る ものに 於け 

る 類で あり、 理想的と は、 人間の 『到底 經驗 すべから ざる こと * 或は 實際 荷り 得べ か 

ら ざる こと を 詠みた る もの』 である。 『今人に して 古代の 事物 を 詠み、 未, だ 行かざる 地 

の 景色、 風俗 を寫 し、 曾て 見ざる 或る 社會の 情狀を 描き出す 者』 である。 文舉 は須ら 

く 兩者を 兼ね 4、 へて ゐ なければ ならない。 謹厳なる 芭蕉 は 『苟 にも 嘘 をつ かじ』 とて 文 

寧に 理想 を排 したので あるが、 蕪 村に あって l^r 自究 的に それ を應 用した ので ある。 

子規が 玆に謂 ふ 所の、 實驗 的、 理想的と いふ 美の 分類 は、 厳密に いふ 時には、 甚だ 

不徹底な ものである ことお、 ^は 今更ら 蝶々 する まで も 無い。 先づ 彼の 现想 的と いふ 



意味 は、 想像 的と いふ 言葉 を それと 置 き 代へ る 1« らば、 稍 妥當に 近い かも 知れない。 そ 

れは 別問題と して 鬼に 角 子規の 所謂 理想的で あると. いふ 燕 村の 句 を 少し 擧げて 置く。 

河童の 戀 する 宿 や 夏の 月 蕪 村 

名月 や 鬼の わたる 認訪の 湖 同 

指南 窣を胡 地に 引き去る 霞 かな 同 . 

朝 比 奈が曾 我 を 訪ふ日 ゃ初鏗 同 

鬼 貫 や 新酒の 中の 貧に 處す 同 

fV 子の 水 や 長 沙の裏 長 星 同 

又^ 蕉は 俳句 はなるべく giupaf に 作るべき こと • 所謂 r 頭より すらく と IK 下し.^ る』 

べき もの、 或は 『物 二三 取 築る 物に あらす、 黄金 を 打の ベた る 如く ある』 べき ものと し 

たに 反し、 燕 村 は複雜 なる 意匠 を縱 横に 用 ひて、 毫も 失敗して ゐ ない。 此の 複雜 美に 

於いて は 蕪 村 は 『美 は簡單 な.^ と いふ 古^の 標準 も 菜て 、願み』 ない。 其の 功ゃ沒 すべ 

子規の W 論 ニー * 



力らざる ものである。 

草 霞み 水に 聲 なき 口 暮 かな 1 村 

梨の 花 月に 書 讀む女 あり 同 

五月雨 や 水に 錢^ む 波し 舟 同 

私 赝ゃ酒 球に 詩うた ふ 漁 者 撫^ 

ガ 力れ ぐ 蓼 か あらぬ か 蓄麥か 否か HP 

等の 句に 見る も、 I 句の 巾に いろ/ \ な 景物 を 取り入れて、 複雜 なる 美 を 構成して ゐ 

る ことが わかる。 :f 巴蕉の 

ひら/ ^ と あぐる,^ や ffl- の 峰 蒸 

しばらく は 花の 上なる 月夜 哉 同 

の 如き 比で はない。 . 

『外に 廣 I 之 I 雜と謂 ひ、 內に詳 なる 直 を 精細と 謂 ふ。 齧の 妙 は Isl 



ならしむ るに あり。』 蕪 村の 俳句に は 此の 精細 美 を發掷 した ものが 多い" 

ぁぢ きな ゃ桥 落ち 埋む 庭た つみ 蕪 村., 

夏 川 を 越す 嬉し さよ 手に 草履 同 

鮎 くれて 寄らで 過ぎ ゆく 夜の 門 同 ノ- 

夕風 ゃ水靑 驚の 腔 を 打つ 同 

點 滴に 打 たれて こもる 蝸牛 同 

蚊の 聲す 忍, 冬 の 花 散る たびに 同 

庭た つみ に 棒の 落ちた の は 誰も 考べ 附く であらう。 けれども 埋 むと は 言 ひ 得ない の 

である。 若し 埋 むに 力を入れたならば、 俗 句と 成って しま たで あらう。 『落ち むと 

字餘 りに して 埋む を輕 く用ゐ たる は、 蕪 村の 力量』 である。. 『善き 句に は あらね ど、 埋, 

むと 迄 形容して 俗なら しめざる 處、 精細 美 を 解した るに 因る。』 『手に 草履と いふ こと 

も * 若し 拙く 言 ひのば すなら ば、 殺風景と なる。 短く も. 言 ひ 得る の を V, 『嬉し さよ』 と- 

H- C? の诽論 ニー 九 



夜 ° 更 
を ° 衣 

寒。 母 

み ° な a 



長く 言って、 長く も 言 ひ 得る の を 『手に 草履』 と 短く 言 ひしと ころ、 『良工 苦心の 處 なら 

んか』 と 子規 は 賞め てゐ る。 

以上 は 蕪 村の 俳句の、 內容卽 ち 意匠に 關 する 特色で ある。 子規が 蕪 村の 憤 値 を、 以 

上の 諸點に 置いた 丈け でも、 旣に 賞め 過ぎる 程 賞め たもので あるが、 更に 表現に 於け 

る 手腕に 就いても、 蕪 村の 卓越して ゐる こと を 看破した ので ある。 例へば、 

指南車 を 胡 地に 引き去る 霞 かな 蕪 村 

閣に 坐して 遠き 蛙 をき く 夜 かな 同 

鮮桶を これへ と樹 下の 床几 かな 同 

の 如く、 何のい やみ も俗氣 もな く、 漢語 を 自由自在に 驅 使した るが 如きが それで ある。 

ん藤原 氏な りけ り 蕪 村 

小 冠者 臥したり 北枕 同 



の 如く、 古語 を 適切に 用 ひたる、 或は 又、 

出る 杭 を 打た うとしたり や 柳 かな 蕪 村 

酒 を煑る 家の 女房ち よと ほれた 同 

の 如く、 俗語 を 巧みに 用 ひたる、 然も 皆い やみに 陷ら ない の を 見れば、 蕪 村の 手腕の 

凡なら ざる を證 する ものである。 

此の 外、 これ 迄、 何々 や、 何 かなと いふ 平凡 I 點張 りの 句 調の 外に、 

卷風ゃ 堤 長う して 家 遠し 蕪 村 

鮮を E す 石 上に 詩 を 題すべく 同 

出べ くと して 出すな りぬ 梅の 宿 同 

等の 如く 新しき^ 现法を n 拓 して ゐる。 又 句 調に あっても, 從來 は、 五 七 五の 句切り 

にて 意味 も 切れた その外に は、 餘り 手出し をす る ものがなかった、 けれども 蕪 村 は * 

宮城 野の 获更 科の 薷麥に いづれ 蕪 村 

子 粗の 饼 19 r_r 



柳 散り 淸水 洇れ 石と こ ろ 同 

春風 や 人 住みて 煙 壁 を 漏る 同 . ...u-. 

等の 如く、 意味が 必す しも 句切に 依って 切れない やうな もの を縱 横に 用 ひたの は 、彼.. 

獨特の 表現 法で ある。 

此の 外に 蕪 村の 特色と して 子規の 擧げ たもの はノ まだ 一 一三 ある けれども、 それ は^ 

くと して、 兎に角、 內容 上に ありても、 表現 法に ありても、 此 上の 諸點 だけで も、 恭? 

村の 眞價は 古今 獨 歩と いふ ほどの ものである。 子規の 兄 方に 依れば 蕪 村に は缺點 とい 

ふべき もの は、 殆 んど兒 當ら ない。 

子規が 此の 燕 村の 研究 は、 俳句に 於け る 彼の 迎る べき 路 或は 方向 を 何の 位ゐ支 sf;; 

てゐ るか わからぬ。 彼の 事業 は 殆んど 蕪 村の 指示した ると ころ を 只^ 展 して ゆく 丈け 

でも、 十分 効 を 奏する ことが 出来た であらう。 ぺ- 



六、 月並 俳句と 新 俳句 

今日に あって は、 獨り 俳諧に たづ さはる 人 許りでなく、 少し 新しき 趣味 意識の 發達 

した 人ば、 n: 並と いへば、 陳腐な こと、 乃至 は 平凡な こと を S 味す る ものと 說明 する 

迄 もな く 直ぐ 合點 する やうに なった。 それ 丈け 月並と いふ 語が 惡ぃ 意味で 普及して ゐ 

る。 

抑々 月並と いふ 語の 本来の 意義 は 何う いふ こと を 表 はして ゐ るかと いふに、 毎月 決 

まって 催す ことで ある。 月並 俳句 會 とい へ ば 例の 通り 毎月 決まって 催す ところの 俳句 

會と いふ 事で ある。 當 時の 舊 派の 俳人 等 は、 毎月 月並 俳句 會を 開いて ゐ たと 見えて、 

子規 は 彼等 宗匠 を 中心とする 舊 俳人 等の 連中 を 月並 社 會とは 呼んで ゐ たので ある。 從 

つて 更に 彼等の 俳句の 傾向 i 例へば 陳腐と か 俗調と か 11 を I 括して、 月並 流と 言 

つた。 されば 子規の 運動が 漸く 俳壇に 勢力 を 得る に 至る や * 多くの 新しい 俳人 等 は、. 

子织 の S 一 i 



月並と 批評 さる、 こと を 何麼に 恐れた かわからなかった。 叉 月並と いふ 言葉 を 浴びせ 

らる \ 丈 けで、 もう 最後のと にめ を 刺された と 同し であった。 子規の 事業 は、 此の 月 

並 を 倒す ことが、 唯一の 目的であった とも 言へ る。 

然らは 子規の 所謂 s: 並 流と は 結局 何 を 意味す るか、 それと 月並で ない ところの 新し 

い 俳句と は M うい ふ 風に 異 ふか、 とい ふ 問題に 逢: 滑す るで あらう。 此の 問題 は * 言 ひ.. 

換 へれば 舊 俳人 等の 俳句の 特徴と * 新 俳人 等の 俳句の 特徵 との 區刖を 明らかにする こ 

とになる ので、 中々 の大 問題で ある。 けれども 子規 は 『俳句 問答』 の 中で、 此の 區別 を、 

比較的 簡單に 述べて ゐ るから、 それ を玆に 引き出して 見ようと 思 ふ。 

『第一、 我 は 直接に 感情に 訴 へんと 欲し, 彼 (と は 月並の 事 を 指す) は往々 知識に 訴 

へんと 欲す 。例へば 

藏建 つる 隣べ は 來す初 乙 鳥 鴛 笠 

とい ふ 句 は、 藏建 つる 隣の 富家に は 燕來ら すして 藏も 無き わが 草の 戶には 燕來れ 



りとの 意なる べし" されば 此 句の 主眼 は 燕 は 富 を 喜ばす 貧 を 嫌 はず 寧ろ 我家に 來 

る は 貧を樂 むな りと 歸納 的に 斷定 する 所に ある ものにして、 卽ち 知識に 訴 へたる 

なり。 是れ 我の 取らざる 所な り。 しかも 此 種の 相逮は 根柢よりの 相違な り。』 

此の 判斷は 純藝術 論から 兒て、 全く 正當の ものである。 知識に 訴へ るの は、 純藝術 

ではない。 今日の 我が 小說界 にあっても、 知識に 訴 へる 作物が 多い ので、 此の 非難が 

あるが、 度 彼れ と 是れと は 同 一 の論據 から 來る ものである。 併し 子規 は 『我 は 感情 

に訴 へる』 と 言って ゐる けれども、 彼の, 純 客觀句 は、 感情に 訴 へる ものでなくて、 矢 

張り 知識に 訴 へる ものである ことに 彼が 氣附 かない。 唯 月並 流と 子規の 客觀 句と は智 

的の 意義が 多少 異る だけで ある。 これに 就いては 前に 述べた から、 玆に說 明 を 略す こ 

とに する。 又 子規 はいふ、 

『第一 1、 我 は 意匠の 陳腐なる を 嫌 へ ども、 彼 は 意匠の 陳腐 を 嫌 ふこと 我よりも 少し、 

寧ろ 彼 は 陳腐 を 好み、 新奇 を 嫌 ふ 傾向 あり。 例へば 

チ現 e 俳! » ニー 一 五 



黄鳥の 初音 や 老の耳 果報 蓬 宇 

の 如き 誰が 聞きても 陳腐なる べき を、 此の 老 俳諧師 は 今更の やうに 作れり。 此の 

句の 如き 必す しも 類句 を擧 げて而 して 後 始めて 其 陳腐 を 知る 者に あら ざれ ども、 

念のために 古人の 類句 を 示さん に、 

鶯の 耳に 順 ふ 今年 かな 紹 巴 

鶯ゃ 耳に これ を 得て 今朝の 春 • 昌 察 

鴛ゃ 耳の Ei- 報 を 數ふ年 梅 窒 

鶯に耳 面 白き 今年 かな 乙 由 

の 如き あり。 殊に 梅窒の 句は最 とも 相 類似せ る を 見る。』 

陳腐と いふ こと、 言ひ換 へれば 古今の 歩み 盡 した 路 をのみ 往來 して、 新しい 思想 感 

情の 創造の 無い ことが、 藝 術に とりて は I 文の 價 値の 無い こと は、 今更 言 ふ 迄 もない。 

陳腐 は藝 術の 停滞で ある。 これ は 今日の 新しい 文學家 乃至 £ 者に は * 殆んど 常識と な 



つて ゐ る。 

『第三、 我 は 言語の 懈弛を 嫌 ひ、 彼 は 言語の 懈弛を 嫌 ふこと 我よりも 少し、 寧ろ 彼 

は 懈弛を 好み 緊密 を 嫌 ふ 傾向 あり。 例へば 

日々 に來て 蝶の 無事 を も 知られけ り 幹 雄 

の 如き 『を も』 の 語は澥 弛の 甚し きものな り。』 

これ も 子規の 批評 は正當 である。 詩の 表現に 於いて、 緊張 を 要する こと は、 言 ふ 迄 

も 無い ことで ある。 何故 なれば 詩に 於け る リズムが 懈弛 する 時には、 美が 失 はる \か 

ら である。 

『第 四、 我 は 音調の 調和す る 限りに 於て 雅語 俗語 漢語 洋語 を 嫌 はす、 彼れ は 洋語 を 

排斥し 漢語 は 自己が e ゐ なれたる 狭き 範圍 を出づ ベ から やとし * 雅語 も 多く は 用 

ゐ す。』 

若し ボケ アブ ラ リ ィの豐 富な ことが、 思想 感情の 自. m 乃至 豐富 を證 明す る もので あ. る 

チ 現の 俳 論 .1.111* 



正 岡 H- ぬ 一 =1 八 

なら ぼ * 子規の 方 を 採らざる を 得ない。 舊 俳人 等が 陳腐に 陷 るの も、 半面に 於いて 此 

の ボケ アブ ラリイの 貧弱から 來る ものと 首っても 差 支ない。 

『第五、 我に 俳諧の 系統と 流派と を 有し、 且つ 之 あるが 爲に 特種の 光榮 ありと 自信 

せる が 如し。 從 つて 其 派の 開祖 及び 其 傳統を 受けた る 人に は 特刖の 尊敬 を 表し * 

且つ 其 人 等の 著作 を 無比の 價値 ある ものと なす。 我 は ある 俳人 を 尊敬 すれ ども そ 

は 其の 著作の 佳なる が爲 なり。 …… 正 當に言 へ ば 我 は 其 人 を 尊敬せ すして 共著 作 

を 尊敬す るな り。 故に 我 は 多くの 反對 せる 流派に 於て 佳句 を 認め 又惡 句を認 むに 

これ は 俳句の 性質に 關 する 傾向の 區^ ではなくて 、俳人の 態度に 關 する 區^ である。 

此 の 子規の 態度が 眞の しき 藝術 的您 度で ある こ と は、 今更 說明を 加 へ る 迄 も ある ま 

い。 子 は、 以上 五ケ 條の 區刖 は、 大 體を識 せりと 信す ると 言って ゐる e これに 依つ 

て 子規の 月並 觀、 及び 新 俳句 論の 概要 を 知る ことが 出来る であらう。 知識に 訴 へる こ 

と、 陳腐なる こと、 表現の 獬弛 する こと、 ボケ アブ ラ リイの 貧弱な こと * 流派 的 感情 



に 支配 さる i こと、 それらが 所謂 月並 派の 特徵 であって * 同時に 藝術 上で 排斥し なけ 

れ ばなら ぬ 事柄で あるの を、 子規が 喝破した の は、 藝 術と は何ぞ や、 藝術家 は 如何な 

る 態度 を 採らなければ ならぬ もので あるか、 とい ふやうな こと を餘 り、 否 殆んど 解せ 

ざる當 時の 幼稚な 俳壇に 於いて は、 實に 空谷の 跫 音と 言っても よかった ので ある。 



規 の 俳 論 一 S ォ 



正 岡 r^- 現 マ Mo 

第 七 章 俳人と しての 子規 

前に 述べて 來た ところ を 見る と、 子規の 俳 論 は 今日から 顧れば、 多少 獨斷 的な、 又 

は 不徹底な 箇所 を 持つ にしても、 鬼に 角當 時に あって は 極めて 組織的で あり 且つ 綜合 

的で あるの を 知る ことが 出来る。 俳句の 研究者と して は 此の 點に 於いて 少く とも 俳人 

の 中の 何人も 及ばない であらう。 然 らば 俳人と して 言ひ換 へ れば 俳句の 作者と しての 

彼 は 何う であらう。 あれ 程理智 的な 子規 は、 想像と 感情と を 中心 要素と する 藝術 品の 

創造者と して 何麼 手腕 を 持って ゐる であらう。 私 は是れ から 其の 方面に 就いて、 聊か 

所見 を 述べようと 思 ふ。 

未だ 芭蕉 も 知らす、 蕪 村 も 知らす、 唯 無 自覺に 句 を ひねべ つて ゐた 時代 はい ざ 知ら 



す、 少く とも 1 1 十五 六 年頃から • 殊に 蕪 村に 接した. 一 一十 七 年から は 彼の 俳句 は 常に 客 

觀的寫 實的倾 向 を 追うて、 それが 殆んど 死ぬ 迄續 いて ゐる。 此の間に 如何に 彼の 所論 

や 俳句が 變濯 「しても、 此の 倾向 だけ は:^ して 消减 して ゐ ない。 始終 一 貰して ゐ ると 言 

つてよ い。 - 

麥 1- き やた ばね あげたる 桑の 杖 (1 一十 五 年 作) 

茱の 花や 野中の 寺の 緣の下 (二十 六ギ 作) 

夜 櫻 や 大 雪洞の. S うつり (二十 七 年 作) 

きらくと 若葉に 光る 午 時の 風. (二十 八 年 作) 

攔 干に は 二十 S 菩薩 春の. 風 (二. 十九 年 作) 

森の 上に 江戶の 火事 見 ゆ 夜の 曇り (三 十 年 作) 

水草 ゃ蜻 蛤と まる 秋の 花 (三十」 年 作) 

古池の 芥に 春の 小魚 かな (I 二十 二 年 作) 

俳人と しての チ親 ,1E1 



正阅子 《s 】am 

春風 や 扇 流しの 裾摸樣 (三十 三年 作) 

夕 顔 の 榻に 糸瓜 も 下りけ り (三十 四 年 作) 

草花 を壓 する 木々 の 茂り かな (三十 五 年 作) 

是 等に 依って 兑て も、 彼 は 常に 客觀 的、 乃至 は寫 的 傾向に I 貫して ゐ る ことが 分 

るで あらう e なるべく 自己の 主觀 -—— 理窟 は 勿論の 事 感情 さ へもぢ いっとして 抑へ て 

ゐる。 彼 は 主として 自然 描寫を やった から、 客觀 的で あると 考 へる 人が あるか も 知れ 

ない が、 それ は 誤りで ある。 同じ 自然 描寫 でも、 蕉 などに は、 主觀 的な ものが 可也 

多い。 例へば * 

あらた ふと 靑葉 若紫の 日の 光 芭 蕉 . 

の 如き は それで ある。 然 らば 子規が 人間 生活 を 取り扱った ものが 主觀 的であった かと 

いふに さう ではない、 矢張り 客觀 的に 取扱 はれて ゐる。 

昔 知る 水夫に 逢 ひぬ 春の 町 



庭に 出て 物種 まくや 病み 上り 

知らぬ 野 を 通る 旅路 や 难の聲 

の 如く、 其 中には 何等 主觀 的な 感情が 表 はされ て 居ない。 唯行爲 を客觀 的に すらく 

と 叙述して ゐる に過ぎない。 耍す るに 自然 物で あらう と 人事で あらう と、 子規の 態度 

そのものが 客觀的 傾向に j 貫して ゐ るので ある。 唯 彼が 其の 趣味から して、 人事より 

も 自然 物 をより 多く 好んだ 爲 めに, 自然 物 を 詠 じた 句が 多い とい ふ 丈け だ。 又 彼の 客 

觀的 態度 は * 半ば 彼の 俳句に 於け る 主義から 來て ゐ る にしても • 半ば は 彼 自身の 性格 

の然 らしむ ると ころで あるの は、 爭 はれない。 彼 は 生れ 乍ら にして、 寫實 主義 的で あ 

, つたと ころから 來てゐ る。 

彼の 藝術は 右の 如く、 客觀的 乃至 寫實 主義 的で あるに しても、 純 粹の藝 術と して、 

俳人と しての rl> 規 1 BMi 一 



果して 纏 つ た 乃至 は 完成した もの であち うか。 , ュ-. 一 L.SV クな而 して 卓越した 藝 術で あら 

うか。 又 彼 は 芭蕉の 如く 乃至 は 蕪 村の 如くぶ 単に 句作 者と して 立派な もので あらう か。 

若し 斯うい ふ 端的な 疑問 を發 する 人が あるならば、 私 は 直ちに 『然 り』 と大膽 なる 肯 

ビ 龙を與 へうる 程の 確信 は 持たない。 勿論 同じ 新 俳人 等の 中で は、 何とい つても 一頭 地 

を拔. S てゐる こと は、 一一 一一 n ふ 迄 もない。 

けれども 彼の 藝 術に は 何處か 深さがない、 鋭 さがない。 客觀的 乃至 は寫實 主義 的藝 

術 は獨り 俳句に 限らす、 凡て さう いふ 弊に 陷り 易い 傾向 を 持って ゐる ものであるから、 

子規の 藝術 も其邊 の 原因から 來てゐ るので あらう。 今日、 或る 俳人の 如き は、 子規の 

俳句 は 全然 称へ 物で ある、 技巧の 產物 である、 などと 批評して ゐ るが、 それの みで- 

ると 斷す るの は、 當ら ない にしても * 實際は 多少 其の 傾き もないで はなから う。 /" 

然 らば 子規の 俳句 は、 如何なる 點 から 見れば 意義が あるか、 價 値が あるか、 或は 全 

然價 値がない か、 ——- 私 は 若し 見方 を換 へるな ちば、 甚だ 意義 も あり、 價値も あると. 



思 ふ。 の 見方と は 純藝術 品と してよりも * 『試みの 俳句』 として それに 對 する 事で 

ある。 子規 は理 il に 於いても 句作に 於いても • 常に 新しき フィル ド の 開拓 乃至 は 改革 

とい ふこと を 念頭に して、 それ を 忘れる ことはなかった。 宗匠 等舊 俳人 は、 唯 廢頹し 

切った 狹ぃ 傳統 11 而も 墮 落した I -を 墨守す るの みで、 新しき 發見も 創造 も 企 て よ 

うとし なかった。 寧ろ それら を 邪道の 如く 忌み嫌つ たので ある。 子規 は 唯 其の 繋縛 を 

斷ち 切って、 新しい 方面の 開拓に 只管 心を碎 いた。 云 は 廢頹し 切った 傅統 よりの 解 

^を 企て、 而 して 眞 の埋れ たる 傳統を 探り出して • 自己の 迎 るべき 新しき 道の 方向 を 

把握し * それに 依って 自 出なる 飛躍 を 試みた ので ある。 だから 彼の 句作の 態度に あつ 

て も、 常に 試みの 心が ま K し、 又 作られた 俳句 其 もの も、 新しき 道への 試みの 跡が 歷 

然として ゐる。 從 つて 彼の 句 は 十七 字と いふ 短詩 形で して 何處 迄內容 の範圍 を擴げ 

られる もの か ——- 勿論 客觀 的と いふ こと は 其の 基因に なって ゐ るが —— 如何なる もの 

は 表現し 得て 如何なる もの は 表現し 得ない か、 とい ふ 疑問に 對 する 試みと して 見る と 

人と しての: ナ親 1 



正 ra 子 現 |£ 六 

きに 初めて 意義が あるので ある。 彼の 言 ふ 意味で なく、 別の 意味での 實驗的 俳句で あ 

る 

彼が 試みの 最も 具體 的な 例 は、 明治 1 1 十九 年 I 月、 『日本 新聞』 に揭 げた 『俳句 1 1. 

十 ra 體』 である。 彼 は 俳句 を、 眞 率體、 卽興體 * 音調 體等 二十 四體に 分類して、 各々 

其 體に從 つて 自ら 試作して 見た ので ある。 玆に それ を 示して 見よう。 

眞率體 

ひらく と 蝶々 黃 なり 水 の 上 

. 三月 や 小 松の 枝に 雀 二 羽 二 

卽舆體 

『卽 與體は 眞率體 に似て 人 察に 關 する もの 也、 はた 天然にても、 際どく 變動 する も 

のは卽 M. 體 なるべし。 而も 眞率體 に 比すれば 多少の 複雜と 巧者と を 許す。』 

一 錢の 釣鏔揎 くや 鳌 霞 



出 代の 傘 を さした る 女 かな 

卽景體 . 

『眞 率體 に似て 天然 を. 王と する もの 也。 人 ie^ にても 天然 的客觀 的に 見る 時には 猶卽 

景體 なるべし。 眞率體 に 比すれば 多少の 工夫 を增 し、 .r^ かも 卽與體 に 比すれば 靜 

止の 方に 傾けり。』 、 

春の 夜ゃ奈 良の 町家の 掛行燈 

夕燒ゃ S の 網に 人だかり 

音 調 體 

『俳句に して 音調 無き は あらす。 され ど 玆に昔 調體と い ふ は 趣向 はさした る 事な く 

て 只 音調の みめ づら かなる 句 をい ふ 也。』 

うれし さの 過ぎぬ 正月 四日な り . 

あれよ く 鳴子に 鳥の 飛ぶ 事よ 

饼人. i しての 子 現 - 



『人 問 以外の 寓, 有 を 人間に 擬 へて 詠む 也。 動物の 擧動 はこれ を 人間の 如く 形容し、 

植物 天象 川 器物 等 はこれ を 意識 ある ものの 如く 形容す る をい ふ。』 

鶯ゃ顏 見られた る 道の はた 

風 ゃ大佛 どの は © なり 

廣大體 

『穴.^ 問の 廣き句 也。 千 S 萬 里と いふ も跌大 なれ ども 千里 萬 里と いひし 許りにて、 な 

かくに 廣 大の感 なくば 下手の 句なる べし。 一 町 一 一町の 處も 一; 一-;: ひ 様に よりて 廣大 

に 感ぜぬ ことか は。』 

ぐるりから 春風 吹く や 鴻の湖 

共 巾に 富士 ぼっかり と 霞 かな 

雄壯體 



『雄 壯體は 勢力の 强 きもの をい ふ。 勢力の 强 きもの は 空^も 廣く、 從 つて 廣大體 に 

似た る 所 あり。 され ど 廣大體 の 空間 は靜 かにして、 雄 壯體の {殳 間 は 動きたり。』 

大砜に 近よ る? f もなかり けり 

雄啼 いて 盤梯 山の 崩れけ り 

勁拔體 

『勁 拔體は 雄 壯體の 小なる 者 也。 靜 止せる 签 間にても 高く 聳えた る 者 は 雄 壯勁拔 の 

感を 起す こと あり。 是れ 物理^に 所謂 潜伏 力の あるが 爲 也。』 

春風 や 鋸 山 を 碎く音 

大砲 や 城跡 荒れて 梅の 花 , 

雅樸體 

『雅 樸體は 陰に 屬 する 句、 卽ち 消極的なる 句 をい ふ。 淋しき もの 古き もの 寂び たる 

もの 衰 ふるもの 貧しき もの 昝雅 樸體 也。 雅撲體 普通に 古雅と いふ。』 

俳人 t しての 子規 IE 九 



• 正 岡 子 SS -KO 

び ぬれば 田螺 鳴く 也 夜もすがら 

古 店 や 買 入 もなくて 涅紫像 

1^ 麗體 , 

Ir^n 體は S. んた 所の 美しき もの を 詠める 也。 M 季 にて は舂最 も^に、 人物に て は 上 

流 社 會及ぴ 花柳 社龠 最も 艷 也。』 

春風に 尾 を ひろげた る 孔雀 かな 

金 殿のと もし 火 細し 夜の 雪 

『繊細 體は i 仝 間の 小き 者 勢力の 弱き者 をい ふ。 故に 嵌 犬の 消極 も 繊細 也。 雄 壯の消 

極 も 繊細 也。』 

鶯の 足跡 ほそし 鍋の 尻 

蓼の 葉 や 泥鱔隱 る- -薄阁 り 



滑稽 體 

『滑^?1,體は 一 讀 して 笑 を 催さし むる 句 をい ふ。 さりと て 川柳の ひたすらに 噴鈸 せし 

むる 者と は異 り、 俳句 は 滑稽のう ちに 品格 あり、 趣味 ある を 要す。』 

どう 見ても 案山子に 耳 はな かりけ り 

鼠 狩れば 鼠の 笑 ふ 夜寒 かな , 

奇警 體 

『奇警 體 はめ づら かに 人の S を さます やうな 意に して、 あらぬ こと を あるが 如く 詠 

み、 ある はさまで なき 事 を 仰山に 形容す るた ぐ ひ 也 o』 

.臺 湾 や 陽炎 索 を 吹く さうな 

永き 日を蟥 上る らん 塔の さき 

妖怪 體 

『妖怪 體は 妖怪の 現在す る處、 或は 將に 現れん とする 凄凉の 光景 を 詠む 也。 妖怪な 

- 俳人と しての 子 現 lil 



らぬ もの を 妖怪の 如く 思 ひなす も猶 妖怪 體な るべ し。』 

血の 跡の 井戸に 盡 きたり 春 の 草 

寒燈 明滅 小僧す よく 寢 入りたり 

祝 賀 體 

『祝賀 體は人 を 祝 ふ 句 也。 千代 萬 代の 長壽を 祈り 常 磐 堅 磐に 榮 えん 事 を 期す。 固よ 

り 祝賀の 本意 也。』 

大君の あれ まし X 日 や 菊の花 (天長節) 

何も彼も 水仙の 水 も 新しき へ賀 新築) 

悲傷 體 

『人の まかりた る を 悼める、 不幸 を 慰めた る、 古今の 遷を悲 みたる、 身の上 を欵 

きたる 错 悲傷 體 なるべし。』 

いた はしゃ 梅見て 人の 泣き 給 ふ (悼) 



戰に 行きて 足 を 切られた る 人に 

わびし さや 炬 健に のばす 足の たけ 

流麗 體 

『句 調 の 安らかに 語呂 の 滑らかなる 句 をい ふ。 大方 其 意味 にか \ はらね ど區域 極め 

て廣 し。』 

1 桶の 藍 流しけ り 卷の川 

群れ 上る 人 や 日永の 二月 堂 

拮屈體 

『流^ 體 の反對 にして、 句 調の ぎくく と 語呂の むづ かしき さま 也。 又 調! 4- にさせ 

る 窮^の 處 なくと も 意匠の 錯雜 したる 者は拮 體 なるべし。』 

不忍に^^^の芽見ぇす春ゃ水 

鳴 子 な くて 鳥 飛びぬ 敵隱れ たり 

俳人と しての 現 一 ns 



正 岡 子ぬ twB 

天 然體 

『天然 物 を 詠す るの 意に て 人事と 分つな り。』 

岩角 やつ X じ 花 暌く齒 朶隱れ 

墨 吐い て 烏賊の 死に 居る 潮干 かな 

人事 體 

『天然 體に對 して 言 へ る 也。 多少 天然 を 交 へ たりと も 人事の 主たる 者は猶 人事 體な 

るべ し。』 

爐 塞ぎて 草鞋 はき 居る 首途か な 

錢 湯で 上野の 花のう はさ かな 

主觀體 

『天然と 人事と に 關らす 作者の 意思 感情 を 現 はした る を 言 ふ。 作者の 知識に よつ て 

ある 物の 關係を 定め、 是非 を 判じた るが 如き も 主觀體 也。 他の 心中 を 推し測りた 



る も亦然 り。』 

福 壽草贫 乏草も あらま ほし - 

京人 の い つ はり 多き 柳 かな 

客觀體 

『夭 然と 人事と に 關らず 客 觀に兒 たる をい ふ。 卽ち 作者の 意見 判 斷等を 交 へ ざる も 

の 也。』 

水 底 に 魚 の 影 さす 春 日 かな 

春 の 山 重なり合うて 昝 丸し 

繙畫體 

『明瞭なる 印象 を 生ぜし むる 句 をい ふ。 卽ち 多くの 物 を 並列した る、 位置の 判然し 

たる、 形 の 精細なる、 彩の 分明なる 等^ 是れ 也。 

茶店 あり 白馬 繁ぐ 桃の 花 

俳人と しての rf 現 五 



すうと 出た 櫻の 枝に 目白 かな 

申 M 豊 

『卽 かす 離れす 實 ならす?! I- ならす 主觀 ならす 客觀 ならす 之 を 祌韻體 と. S ふ。 故に 此 

體には 主客 雨 觀を區 別し 難き; i^、 二 事 二 物の 關係 明かなら ぬ もの 多し。 、干; とする 

所 只 精神 韻 致の み。』 

永き 日 や 蝦夷の 草原 田と もなら す 

禪寺 の 鬥を出 づれば 星 夜 

右の 如き を 見る 人 は、 彼が 如何に 多方面な 試み をして ゐ るかが わかる であらう。 こ 

れ 許りで はない、 同 一 の 題に 於いても、 いろくと 詠み 換 へて みると いふ 風が あった。 

例へば 『墨汁 一滴』 の 中で • 或?! 伊藤左千夫 氏から 鯉 を 貰った 時に 盥へ 入れて 病牀の 

傍に 置き それ を 俳句に 詠んだ こと を談 つて ゐる。 『とやかくと 作り直し 思ひ更 へて や 

うく 十 句に 至りぬ。 さはれ 數は十 句に して 十 句に あらす。 一 意 を 十 榇に言 ひ 試みた 



るの み』 とて、 

春 水 の盥に 鯉の 險嗎 かな 

班淺く 鯉の 背 見 ゆる 春の 水 

鲤 の 尾の 動く 良 や 春の 水 

頭 並ぶ 盥の 1^ や 春の 水 

春 水の 盥に滿 ちて 鯉の 肩 

春 水の 鯉の 活 きたる 盥 かな 

鰱 多く 狹き盥 や 春の 水 

鲤の 吐く 泡 ゃ盥の 春の 水 

鯉の 背に 春 水 そ ,\ ぐお i かな 

鲤 は ねて 淺き盥 や 春の 水 

の 十 句 を 作って ゐる。 叉 『病牀 六尺』 では、 柳に 翁翠 とい ふ 題で * 十 句 を 矢張り 同じ 

俳人と しての. ナ現 1K 七. j 



動機から 作って みた こと を 書いて ゐる。 此の 時には 彼 は 斯う 云うて ゐる。 『赛 水の 鯉 

曝 

(卽ち 前に 擧 げた 春 水の 句の こ と) は 身動き もなら ぬ 程 一一 r 葉が つまって ゐ たが、 柳に 裴 

翠の方 は 稍 ゆとりが ある。 從 つて 凝ら か 趣向の 變化を 許す ので ある。 而 して 其の 結 茶 

はとい ふと 薪翠の 方が 厭味の 多い ものが 出來た 様で ある。 併し こんな 句の 作り 樣は 一 

^の 戯れに 過ぎない やうで あるが、 實際 にやって 見る と 句法の 研究な どに は 最も 善き 

手段で あると いふ ことが 分った。 つまり 俳句 を 作る 時に 配合の 材料 を 得ても 句法の 如 

何に よって 善い 句に も惡い 句に もなる とい ふ 事が、 此の やり方で やって ると 十分に 

わかる 様に 思うて 面白い。』 

此の 外、 彼 は 一 題 十 句と か 一 題 百 句と かいふ もの を 頻りに 作つ. たので あるが、 それ 

が 皆 彼の 試みの 心から 爲 された ものである。 斯 かる 試みに 依って、 彼 は その 持 論 を實 

際にして 見ようと した。 彼 はい i 句 を 作らう とした こと は 勿論で あらう が、 他の 一面 

に 於いて はい X 句 を 作る 方法、 乃至 その 可能性 を 研究した ので ある。 從 つて 彼の 俳句 



は 一 種の 研究所と でも 言 ふべき ものである。 彼の 門下 及び 後 M は、 此の 研究所から 

いろくな 知識 を 得て、 それに 依って 比較的 苦勞 する ことなく、 新しい 俳句 を 作る こ.: 

とが 出來 たと 言っても よい。 彼の 俳句が、 斯うい ふ 意味に 於いて、 何の 位ゐ 彼の 革新 

事業に 便利 を與 へた か 知れない。 云 は 彼 は 後より 來る もの- -爲 めに、 手 ほどき をし 

て與 へた ものである。 而 して 綠の 下の 力持ちと なった ので ある。 彼の 俳句の 意義 乃至 

價敏は 純藝術 品と しての それよりも * 寧ろ 斯うした 意味に 於いて、 十分に 認められな 

ければ ならない。 此點を 無視して 彼の 俳句 を輕々 しく 斷 じて はならない。 

又 彼の 俳句 は 非常に 多岐 多 葉な 表現と 內容と を 持って ゐ るので、 藝術 としての 純 一 

性の 無い こと を 非難す る 人が あるか も 知れない が、 彼の 如く、 常に 試みの 心 を 持って 

句作し た^にと つて は、 止む を 得ない と 言 はなければ ならない。 彼 はわ ざと 意 ,1 して • 

なる ベ く 狭い 自分の 性癖に のみ 囚 へられないで、 廣く 何れの 方面に も 手 を 着けて みよ 

うと 心掛けて、 修 #f したので ある。 此の 意味に 於いて 彼 は 全く 新しき 句作 者の 凡てに 

俳人と しての 子 現 一 



正 岡チ規 ニハ . 

道 を 開いて やった 人で なければ ならない。 彼 は 時代に 冷淡なる 先驅 者ではなくて、 後 

に來る 者に 親切な 先驅 者で あつたの だ。 

ミ 

彼 は 主義に 於いても さう であった が、 實 際の 句作に 於いても 材料に 重き を 置いた の 

である。 陳腐なる 材料 は、 いかに 新し 昧を 出さう としても、 當底 出る もので はない。 

彼の 配合 論 は其處 から 生れて 來る。 同じ 題で も 新しい もの.^ 配合に は、 新し 味が 自然 

出て 來 ると いふので ある。 11 勿論 彼の 配合 論の 中には、 陳腐な 材料で も 詠み 方で 多 

少 新し 味が 出ない わけで もない し、 新しい 材料で も 詠 方に よって 陳腐に はならない 迄 

も惡ぃ 句と なることの ある は、 認めて ゐる。 けれども 槪 して 新しい 材料に は 新しい 味 

が 出 やすいと いふ 考へ は變ら ない 11 。 彼 は 『松蘿 玉 液』 の 中で * 夏 惰十句 を 試みた 

中の 七 句を揭 げてゐ る。 



夏 精 の ,:!: きを かぶり 八字髭 

夏 帽の人 送る や 蟹が 子等 

潮 あびる 裸の 上の 薬 暢子 • 

夏 帽の對 なる を かぶり 二三 人 

夏帽子 人歸 省す ベ き でた ちかな 

夏の 古き を もって 漢法醫 

夏帽も 取り あへ ぬ辭 誼の 車上 かな 

之れに對して彼は斯ぅ^!讚してゐ.る。『もとょりっまらぬが多かれど、 これ こそ は 古 

來誰 一- 人 請 まざりし 新 題 なれば 一 句々 々陳腐 を脫 せし こと 自ら 保證 して も 可なる ベ 

し。 呵々。 夏 帽十句 を 聞きて 先づ 題ば かりにて はや 面白し と 喜びた る は 碧 桐 桐な り 云 

云。』 彼 は 夏帽と い ふ 新し い 題の みで、 その 內容も 新し い こ と を 自讃し てゐ るので ある。 

これ は 彼が 客 觀的藝 術 を 主張し て 、 感情 を 現 はさない やう に 企てた 當然の 結果で なけ 

俳人と しての: f 現 If. 



正 E 子 現 1$ 

れ ばなら ない。 感情 を 現 はす ときには、 その 感情に よって 俳句の 新しい 古いが 決定 さ 

れ るので あるが、 感情の 無い 俳句 は、 自然と その 材料に よって 新しい 古い をき める よ 

り 外に 仕方がない であらう。 • 

彼 は 此の 見地から、 なるべく 新しい 材料 を 配合し ようと 企てた。 其の 手段と して は、 

旅行に 散策に、 其の 見聞 を 擄げる こと を 結えす つとめた ので ある。 從 つて 新しい 材料 

さへ 得れば、 必す 俳句が 出来た。 彼が 病床に 就く 前 は 旅行したり 散歩した りする こと 

が出來 たから、 此の 爲 めに 新しい 材料 をよ く 配合す る こと も出來 た。 

若 竹 や 豆腐 一 丁 米 二 合 

麥 刈りて 疫の はやる 小 村 かな 

蓄後 深く ピアノ 聞 ゆる 薄 月夜 

目 さませば 我据に 春の 月 出で たリ 

史家 村 の 入 口 兒 ゆる 柳 かな 



パ ノラ マ を 見て 玉乘を 見て 日の 永き 

商人 やしば らく 凉む 橋の 上 

三尺の 木蔭に 凉 む主從 かな 

秋 海棠に 齒磨 こぼす 端 居 かな , 

八つ 時の 太鈹 打ち出す 芙蓉 かな 

栗釵ゃ 不動 参りの. 大工 連 

牧師 一 人 信者 四 五 人の 夜寒 かな 

小 刀 や 纷筆を 削り 梨 を剝く 

冬 ざれ ゃ稻 荷の 茶屋の 油 接 

风 ゃ大佛 どの は聲 な. ON . 

乾 鮭 は 魚の 枯木と 申すべく 

風 吹いて 今年 も 暮れぬ 土 佐 日記 

俳人 としての 子 現 r* 一- 



正 岡 子 現 liCB 

寄宿 舍の 窓に きたなき 蒲圑 かな 

乞食 の 録錢拾 ふ枯野 かな 

貝塚に 石器 を 拾 ふ 冬 野 かな 

冬 帽の十 年に して 猶屬 吏な り 

强弓を 引きし ぼり たる 袷 かな . 

是等は い づ れも それら の 題に 引き合せ て 見て、 新しい 材料 を 配合し たものと いって 

よい。 若 竹に 豆腐と 米、 麥 刈りと 疫、 薔微と ピアノ、 裾と 春の 月、 史家 村と 柳、 パノ 

ラマ ゃ玉乘 りと 日永、 商人と 凉み, 主 從と凉 み、 秋 海棠と 齒磨、 八つ 時の 太鼓と 芙蓉 • 

栗 飯と 大工、 牧師と 夜寒、 梨と 纷筆、 冬 ざれと 油揚等 * 皆 それ, <\ 新しい 取り合せ で 

ある。 

處が 彼が 病氣 漸く 進んで、 專ら 床に 横って 叉 好める 旅行 も 散歩 も 出来ない やうに な 

つてから は、 曾遊の 景を 追想す るの みで、 自然 其の! も狹 くな つてし まった ので あ 



る。 從 つて 彼が 主 1^ すると ころの、 新しい 材料の 配合 も 次第に 少 くな つた。 

然 のこと、 言 はなければ ならない。 その 例 を 少し 次に 擧げて 見る。 

あた、 かな 窓に 風邪の 名淺 かな 

のどか さや 障子 あくれば 野が 見 ゆる 

三尺の 庭を眺 むる 舂日 かな 

鶯の來 ぬ恭の 日と なりに けり 

春の 夜 を 尺八 吹いて 通りけ り 

貝の つきし 岩 あら はる \汐 千 かな 

我 行けば 畑 打 やめて 我 を 見る 

ぬれ 乍ら 接 木して ゐる 小雨 かな 

つみた めし 手のひら の 茶の こぼれけ り 

霞む 日の 湖 見渡す や 橋 半 

饼人 と しての 子規 一六 S 



れ 

は 
當 



正 岡 子 現 14:* 

初 雷の 二つば かりで やみ にけ frv 

春の 山越えて 日 高き 疲れ かな 、 

岩の 間, に うづ まく 春の 潮 かな 

出て 見れば 南の 山 を燒き に けり 

兩 方で にらみあ ひけり 猫の 戀 

庭に 來„ ^胡蝶 うれしき 病後 かな 

紅梅の しだれ 枝 や 鳥 も來す 

】 つ 落ちて 二 つ 落ちた る 椿 かな 

彼 は 斯くて、 材料に 於いて 行きつ まった 傾きが ある。 庭と 舂日、 鶯と舂 曰、 接 木と 

雨、 岩間と 春 潮、 紅梅と 鳥 等、 何人が 見ても 殆んど 何等 取材の 上の 新し さ を 見出す こ 

とが 出来ない。 殊に 初 雷の 句 * 猫の 戀、 椿の 句と なって は、 他に 何等の 配合お 料 を 持 

つて 來な いとい ふ有樣 である。 



然 らば 材料 卽ち 客觀物 そのものに 新し さ を 求めないで、 感情 を 現 はし、 その 方面に.. 

新し さ を 求めた か、 とい ふに 勿論 それ は 彼の 從來の 主義が 許さなかった 爲め であらう、 

決して それ を 試みなかった ので ある。 吾. の 想像 を以 つて すれば、 彼が あれ 程の 病氣 

を 持つ 身と なったならば、 吃 度 感情的 方面が 勢力 を 得て 来て、 それが 端的に 藝 術の 上 

に はれて 来る のが 自然で あらう と 思 はれる。 けれども 彼 は 決して 今迄の 憨度 を棄て 

る やうな ことはなかった。 これ 卽ち 彼が 自分の 主義に 反くまい とする 強いく 意志の 

力に よって、 それが 壓 迫せられ たもので あらう。 これ を以 つて 兒ても 彼が 如何に 自分 

の 信念 を 持す る ことの 堅く、 それに 對 する 努力の 彈カ ある もので あつたか わかる。 

唯よ くく 注意して 見れば * 臥床 前のに は, 殆んど 主觀的 乃至 は 感情的の 句が 無く、 

あっても 極く 僅かで あるか、 又は それ も强 ひて 客觀 化して 終った,^, の 許りで あつたの 

が、 床上の 人と なつてから は * それが 表面に 直接 現 はされ る 場合が、 稍 眼に 着く やう 

になった とい ふ 丈け である。 例へば、 

俳人と しての 子規 . 1*2 



正 岡 子規 1 六 八 

長閑 さ を獨. ^ゆき 蹈り 面白き 

挎 着て ゆかし や 人の 冬 籠 

の 如き、 王觀 句が 辛うじて 前期の 句 中に 兒 出される だけで ある。 主觀を 取扱っても 又、 

古 雛の 古き を 愛す ER か な 

の 如く、 男 かなと いってす ぐ その 感情 を客觀 化して しま ふ。 けれども 後期の 句た る 『春 

夏 秋 冬』 に は、 

雪解けて 雪踏の 音の 嬉し さよ 

庭に 来る 胡蝶 うれしき 病後 かな 

家主の 無殘に 伐り し 柳 かな 

我 庭に げん /\ ゆ、 ける 嬉し さよ 

など、 いふ 感情 を 表現した 句が * 稍 多くな つた やうに 兄え る。 けれども 句 數の上 か 

ら 言ったら * 斯うした 主觀 的な 俳句 は 全體の 何十 分の 一 だか 何百 分の 一 だか わからな 



K 是 等の 句 は 唯、 彼の 病〕 I- 及び それによ る 境遇から 生じた 感情の 力が 彼の 理性と 意 

志との 隙 問 を 窺 つ て 、 無意識に 彼の 藝 術の 上に 現 はれて 來 たも のと 言 へ よう" 

最後に もう 一度 繰返して いふなら ば、 彼の 俳句 は * 純藝 術と して 見る 時には、 彼の 

名 聲に價 する ほどの 價値 ある もの か 何う か は 一 寸 疑問 だが、 新しき 俳句の 原野に、 廣 

く實際 上の句 作の 試. み をな し、 而 して 後より 来る 者に 句作 上の 踏み出すべき 第 I 歩 を 

多方面に 1 つて 示し 與 へたと ころに、 その 意義と 憤: g と を 認める。 彼の 試み を 出發點 

として 相 常の 俳人が、 彼の 周圍 に、 或は 彼の 後に 可也 多く 出て ゐ るの は當然 である。 

だから 彼の 藝術は 味ふ藝 術と いふよりも、 研究すべき 藝: 術、 维 ぶべき 藝 術と いふ 方 

が 適切で あるか も 知れぬ。 彼の 俳句 は 技巧の 俳句で あると、 今日 批評 さる- • の も、 此 

の 點に對 する 批評で あらう。 

俳人と しての 子 現 



E 岡 現 -*0 

第 八 章 歌人と しての 子規 

程 は 俳人と しての 子規 を談 り、 且つ 論す る ことに 紙數を 費し 過ぎた 爲 めに、 歌人と 

しての 子規 を 論す ベ, き 紙 數の少 くな つたこと を 遣 憾に思 ふ。 けれども 此の方 面に 於け 

る 子規 を 閑却す る ことが 出来ない から、 簡單 であるに せよ 鬼に 角、 多少 論じて 置かな 

ければ ならない。 

彼の 文藝的 活動 は 中々 多方面で、 俳壇の 外に、 和歌、 新體 詩、 寫生 文、 小說 等に 至 

る 迄 手 を 着けて ゐる。 それ 許りで はない、 假す にもう 五 年の 餘命 を與 へたなら, ば、 0. 

畫、 戯曲の 方面に 迄 進んで 行った かも 知れない。 然し 彼が 實 際に 於いて 俳 以外の も 

の& 中で、 最も 力 を 注いだ もの は 和歌と 寫生 文と であらう。 

彼が 和歌に 手 を 15 けた 抑々 の 初めは、 三十 一 年 一 一月 『口 本 新聞』 に 『歌人に 與 ふる 書』 



を 竹の 里人の 名を以 つて 書いた のが それであった。 それが 『再び 歌よ みに 與 ふる 書』 と 

なり、 『三た び 歌よ みに 與 ふる 書』 となり、 遂 ひに 『十た び i 』 に 及ぶ。 それから 同年 

四月から は、 『人々 に 答 ふ』 と 題して、 『其の 十三』 に 及ぶ 迄 歌論 を續 けた。 三十 二 年の 

夏に は 『歌 話』 を 書いた。 歌論と して 此の 外に、 『^覽 の 歌』 『短歌 愚考』 等が あり、 尙彼 

の 病床 隨筆 たる 『墨汁 I 滴』 『棒 三昧』 『文 界八ッ あたり』 等の 中に も 短歌 il がちよ い 

ちょい 混って ゐる。 此の 問に 彼 は E ら その 主張す ると ころに 立脚して、 和歌の 作 を も 

續 けて ゐた。 『百 中 十 首』 『蕈狩 十 首』 『繪 を兒て 作る 歌のう ち』 『病牀 喜晴』 等が その 

中の 主なる ものである。 

私 は 彼の 歌 及び 歌 41 を說く 前に、 先づ當 時の 歌 擅に 就いて 鳥渡 述べて 置き 度い。 當 

時の 歌壇 は 俳壇より は 稍 進歩して ゐ たので ある。 卽ち 舊來の 腐敗した 歌人の 外に、 鬼 

欺 人と しての 子規 I tl 



に 角 それに 飽 足らないで、 新しき 境地 を 開拓 せんと 努力す る ものが、 可也 輩出して ゐ 

たので ある。 先づ當 時に 於け る舊 派の 歌人 及び 歌風 は 何う であった か、 とい ふに、 香 

川 景樹の 系統 を 引いた 桂 園 派が Ite: 派の 中心で、 高 崎 正 威、 黑田淸 綱、 稅所敦 子、 下田 

歌 子等の 諸氏が 其 屮にゐ た。 それから 宮內智 派と いはれ る 小 出 祭、 坂 正臣、 大口 鲷ニ、 

千 葉 3iw 等の 諸氏 や、 其れに 屬 しな いまでも 小 杉 榲邨、 黑 川眞賴 等な ども、 同じ 五十 

歩 *3 歩の 舊派 歌人で ある。 之 等の 人々 は 多く 景樹 派の、 生命の ない 古典的 形式的 三十 

一文字 を 作って、 自ら 高し として ゐ たので ある。 其 處には 行 詰った 腐敗した 傳統の 外 

に は 何物 もない。 

之 等に 飽 足らす して 先づ 短歌 革新の 聲を擧 げたの は、 落 合 直 文 氏で、 彼 は 俳句に 於 

ける fi. 規と 同じく、 新しき^jE:年歌人を養成することにひたすら努カを盡した。 斯くて 

其 門下に 與 謝野鐵 幹、 金子 薰園、 尾上柴 舟、 大町 桂月、 服部躬 治、 親 井 雨. 江 等 諸氏の 

新進 氣 鋭の 歌人が 出た ので ある。 殊に 與謝野 鐵幹氏 は當時 (三十 1 一年?) 新しく 新詩肚 



とい ふ を 結び、 機 關雜誌 『明星』 を發 行して、 頻りに 派の 運動に 努力し 出した。 明星 

派の 特色と すると ころ は、 極端に。 マ ン チックな * 而 して 自由 奔放な 3 心 想 感情 を 端的に 

表現す る點 にある。 恰度 萬 派の それと は、 全く 正 反 對な兩 極端に 立って ゐ ると 言って 

よい。 つまり e 似 等 は 急進派の 先鋒で ある。 

此 外に 同じ 直 文 門下で あり 乍ら、 稍 落着いた 作風 を 示して ゐ たの は、 薰園、 柴舟、 

躬治 等の 諸氏で ある。 

それから 當 時の 歌壇に 於いて、 ^文と は 全く^ 派に 屬 して 起って ゐる 入に * 佐々 木 

信 綱 氏が ある。 彼 も 矢張り 舊 派に 飽足ォ すして 二十 二 年に 竹 柏 園 を 開いて、 自ら 新し 

ぃ跻を 切り開か うと 努力して ゐた。 直 文 派の 如く、 急進的、 情 熟 的な ところが 少ない 

けれども、 徐々 として 新しき 方面に 進まう として ゐた。 だから 世人から は 折衷 派 だな 

ど、 一一 C はれて ゐる。 『心の 華』 がその 機關雜 誌と して 發行 されて ゐた。 

斯うした 趨勢の 下に 進みつ 、ある 歌壇に 飛び込んで、 兎に角 それらの 何れに も盲從 

軟人 としての 子規 .1 モー 一一 



する ことなく、 自己の in6 識に 依って 新しく 運動 を 起さん としたの は 彼れ 正 岡 子規で あ 

る。 子規の 運動 は 果して 俳壇に 於け るが 如く 歌壇に 於いても 中心 勢力 を 得る 迄の 効 を 

奏しなかった の は、 歌壇 彼よりも 進んで ゐた のか、 彼れ 歌壇よりも 後れて ゐた のか、 

それ はわから ぬけれ ども、 併し乍ら、 全く 足跡 を 止. むる ことなくして 止んだ のでない 

事 丈け は 確かで ある。 根 岸 派と いふ. 名れ、 彼の 殁後 も尙 命脈 を 保ち、 殊に 最近に 到つ 

て、 ァ ララ ギ派 —— これ は 根 岸 派の 系統と 見るべき である 11 が 歌壇の. B. 心 勢力と な 

りつ、 あるの 事實を 顧るならば、 歌壇に 於け る 子規の 名 も、 決して 忘るべからざる も 

のとな つたので ある。 

彼 は 俳句に 於け るが 如く、 和歌に あっても、 先づ 古歌の 研究から 初めて、 共の 中 か 

ら眞の 傳統を 求めた。 斯くて その 最も 純眞 なる もの を 萬 葉 集に 見出した ので ある。 萬 



葉 集 は 日本に 於け る、 歌集 中の 歌集で あると は 彼の 見解で ある。 『當 時の 人 は 質朴に し 

て 特^ に 優美なる 歌 を 詠み 出 でんと 工夫す るに は あらす、 只 思 ふ 所感す る 所 を 直ちに 

歌と なした る 者と 思しく、 何の 歌 も眞摯 質朴 I 點の俗 氣を帶 びす。 固より 平々 凡々 の 

歌 多 かれ ども 時には 雄壯勁 健なる 者 あり。 語 淡に して 旨 遠き 者 あり e 今日に 至りて 猶 

絶 調と 言 はる - -者少 からす。 其 平凡の 者と 雖も 後世の 巧 を 弄して 却て 失する 者に 比す 

れ ば, 复 かに 數等 上に 在り』 と は 彼が 萬 葉 集に 對 する 見解の 耍點を 示した 言葉で ある。 

又 彼が 萬 葉 以後に 於いて、 眞に 歌人ら し. S 歌人 は 四 人し か 無い と 言って ゐる。 それ 

は源實 朝、 田 安 宗武、 井手 曙覽 及び 平賀 元義 である。 然も 彼が 之 等の 歌人 を推獎 する 

所以の もの は、 彼等が 何れも 萬 葉の 系統 を 引き、 萬 葉から 學ん だと ころに あるの も、 

彼が 如何に 萬 葉と いふ もの を尙ん だかと いふ こと を證 明して ゐる。 彼は實 朝に 對 して 

は、 『源 實朝 11 專ら萬 葉を舉 び、 古今 獨 歩の 秀欹を さへ 多く 詠み 出で たりと 雖も、 唯. 

實朝 一人が 特に 卓出せ しに 過き すして、 天下 曾て これに 倣 ふ 者 無 かりし は、 實に眞 成, 

R 人. tl てめ rlTB 一 *_» 



の 歌人の 世に 絕 えたる 證 にして、 一方より 見れば 實 朝が 大 見識 を觀 るに 足る』 とい ひ、 

田安宗 武に對 して は、 『宗武 は 萬 紫を學 びて 其 骨髓を 得た る^、 共 歌 多く は 萬 集 調な り。 

され ど 萬 葉 を 固守して 其範 圍を脫 する 能 は ざり しが 如き 無能者に は あらす、 云々』 と 

いって ゐる。 又 井手 曙覽に 就いては 『曙 覽が新 言語 を 用ゐ新 趣味 を 詠 じ、 毫も 古格 舊 

例に 拘泥せ ざり し はな か/.^ に 萬 紫の 精祌を 得た る ものにして、 古今 集 以下の 自ら 畫 

して、 小區 域に 局 促たり しと 同時に 語る 可き にあら す』 とい ひ、 平 賀元義 に 就いては 

『元 義の歌 は 醇乎たる 萬 葉 調な り。 故に 古今 以後の 歌の 如き 理窟と 修飾との 厭 ふべ き 者 

を 見す。 …… 故に 其眞摯 にして 古雅 毫も 後世 繊巧 撫^の 弊に 染ます 云々』 といって ゐ 

る。 卽ち 何れも 萬 葉 を學ん だと ころ は 皆 共通して ゐる。 

斯く 極端に 萬 薬 を 好んだ 彼が、 其れの 反 對の倾 向 を 持って ゐる古 < &. 集、 及び それの 

系統に 屬 する 短歌 を 排斥した の は、 當然 のこと でなければ ならぬ。 古今 時代の 歌風 を 

批評して 彼 は 斯うい うて ゐる。 『平安朝に 至りて 和歌 は 全く 奈良朝 時代の 臭 氣を脫 し 一 



正 岡. ャ現 1 七 八 

に 於いても しょうと した こと は、 事赏 である。 彼が 曾て 『明星』 に 出た 落 合 直 文 氏 

の 

ゎづら へ る 鶴の 鳥屋み て われ 立てば 小雨 ふり 來ぬ梅 かをる 朝 

とい ふ 和馱を 批評して、 斯うい うて ゐる。 『「煩へ る 鶴の 鳥 尾」 と ある は • 「煩へ る 鶴 鳥 

屋の 鶴」 とせざる ベから す、 原作の ま、 にて は 鶴 を 見す して 鳥屋ば かり 見る かの 嫌 ひ 

あり。 …… 此の 歌 は 如何なる 場合の 飼 鶴 を 詠みし か …… 卽ち 動物 圃か はた 個人の 庭 か 

…; 若し 個人の 庭と すれば 「見て われ 立てば」 とい ふ 句 似 あはし からす、 「見て われ 立 

てば」 とい ふ は 何う しても 動物園の 見物ら しく E 心 はる。 若し 動物園と すれば 「梅 か を 

る 朝」 とい ふ 句 似 あはしから す。 「梅 かをる 朝」 とい ふ は 個人の 庭の 靜 かなる 景色ら し 

くして 動物園な どの 騒がしき 趣に 受け,^ られ す。 若し 义 動物園と か 個人の 庭と かに 關 

係な く 只 漠然と これ だけの 景色 を 摘み 出して 詠みた る ものと すれば、 それでも 善 けれ 

ど 併し それならば 「見て われ 立てば」 とい ふが 如き 作者の 位置 を 明瞭に 現 はす 句 はなる 



ベく 之 を 避け、 只 漠然と 其 景色の み を 叙せ ざるべ からす。 若し 此の 趣向の 中に 作者 を 

入れん とならば、 動 物^か 侗 人の 庭 か をも^ 瞭 ならしむべし。 云々』 

これ を兑て も、 彼 は 短歌に 於いて、 如何に 例の 寫生的 態度、 乃至 は 印象の 明瞭 を 欲 

して ゐ るか を 知る ことが 出来る。 此の 批評 はまる で 彼の 俳句 の 批評 を 見る やうな 感 が 

ある。 併し 浙 うした 批評 は、 極めて 理知的な ものであるから、 C マン チックな 常時の- 

新進 歌人の 同感 を 招致す る ことが 出來 なか つたので ある。 

然 らば 彼 自身の 歌 は 何う であらう。 彼 は 主義に よって 俳句 を 作った ごとく. 和 

.が中: 義 によって 作って ゐる。 卽ち 俳句 に 於いて は 創作 も議. i も 共 に客觀 主義 を I, は つ た 

如く、 和歌に 於いても 亦、 創作、 議論 共に 客觀 主義 を 採って ゐる。 彼 はなるべく 感情 

を 外に ti 々しく 現 はすまい として ゐる 跡が よく 分る。 

人と しての 子 現 1 七 九 



丁と 打てば 丁と 打つ 槌音 冴えて 鍛冶屋の 梅の 眞 白に 散る 

野 分して 雜 倒れた る裘の 家に 若き 女の 朝餉す る 見 ゆ 

日に うとき 庭の 垣根の 霜柱 水仙に 添 ひて 炭 俊 敷く 

菜の 花に 日は倾 きて 夕 雲雀し きりに 落つ る巿 川の 里 

是 等の 歌 を兒て も、 その 客觀 主義に 立脚して ゐる ことが わかる であらう。 併し乍ら 

よく 之 を 味 はんと すれば、 何處 かにうる ほひがない 感じが して、 心に しっくりと 來な 

い。 是れは して 何に 原因す るかと 考へ るに、 彼 は 唯 客觀的 材料 を 叙述した ビ けで、 

共の 材料の 奥に 作者 自身の 體驗が 加 はって ねない からで あらう と 思 ふ。 卽ち彼 は 和歌 

に 於いても * 試みと いふ こと を 忘れなかった ので ある。 彼 は 萬 葉の 價値 を高唱 しなが 

ら、 それの 感化 をう けたる 彼の 和歌が 斯 くも 萬 葉と 相 去る ことの 遠い もの は、 萬 葉に 

あって は 作者の 體驗が 一 直線に 端的に 表 はされ てゐる ことに 氣附 かなかった ところに 

あるので はなから うか。 , 



然 らば、 主觀的 方面の 例へば 感情 を 明らかに 表現の 上に 露 はした 和歌 は 何う である 

か。 斯うした 知 歌 は 容觀 的な 和歌よりも 遙 かに 少ない * けれども 俳:? に 於け る 主觀句 

より は. S くら か 多い。 其の 中から 一 一三 首拔 いて 昆 よう。 

何事 もつれな かりけ る 世の中に 死なば か 人の あはれ とも 見ん 

望の 夜 はこ ひしき 人の 住む とい ふ 月の 面 を 眺めつ X 泣く 

草分けて しめ ぢを 取る とうれ しく も大松 蕈を兒 出で つるかな • 

これら も 試みの 和歌で ある。 何う しても 彼の 感! S の 必然性と いふ もの を 持って ゐな 

いやう に 見える。 けれども 『墨汁 一 滴』 などに ある 彼が 興に まかせて 作れる 歌な どに、 

よいの が ある。 

夕顔の 棚つ くらん と 思へ ども 秋 待ちが てぬ 我い のち かも . 

いたつ きの 癒 ゆる 日 知らに さ 庭べ に 秋草 花の 種 を It かしむ 

裏口の 木戶 のかた への 竹垣に たばねられ たる 山吹の 花 

欲 人と しての 子 1A1 



これらの 耿は 前のに 比べる と、 餘程 吾々 に 親しみが ある やうに 感ぜられる。 これ は 

^に K るかと いへば、 例の 試みの 態度から 生れた ものでなくて、 彼の 體驗 の內 から m 

いた もの だからで ある。 

又 彼の 歌の 特長-は、 なるべく 首 葉の 範圓 を廣 くしょう として ゐる ことで ある。 卽ち 

萬 葉 頃の 一 W 葉 も 用 ひれば、 俗語め いた 言葉 も 用 ひ、 或は 漢語 も 用 ふといつ たやうな ェ 

合で ある。 例へば, 

藤な みの 花 をし M れば奈 良の みかど 京の みかどの 昔 こ ひし も - 

別れ ゆく 春の かたみと 藤 波の 花の 長 ふさ 繪 にかけ るか も 

と 詠む かと 3^ へば、 或は 

薩摩 下駄 足に とり はき 杖つ きて 萩の 芽 摘みし 昔お も ほ ゆ 

〇】i£ 先に ぶらさげ たる もの を 

武藏野 の 冬 枯芒婆 々に 化け す 梟 に 化けて 人に 寶られ たり 



などい ふ 歌 も 作る ので ある。 叉 

〇 金 州 戰 後 

iR 人 の 驄馬 に 鞭う つ 影 もな く 金 州 城外 柳靑 々 

城 中の 千戶の 杏花 ゆ、 きて 關 帝廟 下人 巿を なす 

の 如き 漢文 句 調の もの も ある。 彼 はくろうとの 歌人、 卽ち 所謂 歌よ みの 歌と いふ もの 

を 頻りに 排斥して ゐ るが、 彼の 歌 を 見る と、 "li^ れ は义餘 りに 素人 過ぎる の感が ある。 

餘り にくろうと 過ぎる の も マ ンネ リズムの £ 犬 はげしく、 さりと て叉餘 りに 素人 過ぎる 

の も 吾々 の 感情が それ を迎 へようと しないの である。 此の 外に、 着想が 何 を 主 服と し 

てゐ るの か、 或は 何 を 示さう として ゐ るか 一 向 分らない やうな ものが よく ある。 

この 藤 は 早く. 吹きたり 龜井戶 の 藤, 咲か まく は 十日 まり 後 

龍 岡に 家居る 人 は ほと、 ぎす 聞きつ とい ふに 我 は 聞かぬ に 

等の 如き は それで ある。 殊に 前者に は 何等の 思想 も 感情 も * 又はまとまった客觀的 

欧人としてめ^^s: 一八 111 



觀照 そのもの も 無い。 所謂 『た ごとうた』 と は此事 をい ふ もので あらう。 

要するに 歌人と しての 彼 は、 さう 大した 功鑌を 我が 歌壇に 淺 して ゐ ない。 唯 ほんの 

小さな 足跡 を淺 して ゐる に過ぎない。 彼 は 俳句に 於け る 態度 を 直ちに 和歌に 移して 成 

功す る ものと 思った のが、 抑々 の 誤解で ある。 唯 萬 葉の 批評 * 實朝、 宗武、 ^覚、 元義 

等の H: 價の轺 介 等 は、 相 當に慣 値 ある ものと いふべき である。 



第 九 章 子規の 寫生文 論 

, 子規 は 人事よりも 天然 を 好み、 、! ^觀 よりも 客觀を 好む の は、 彼が 生れ 乍ら の 性格 か 

ら來 てゐる ものである こと を 前に 一一 目 つた。 されば こ そ 俳句 に 於いて 寫生 は 最も 適當し 

たもので あるから、 それ を 採用す ると は稱し 乍ら も、 和歌に 於いても、 緣甞 一て 於いて 

も、 矢張り 寫生 主義 を 採用して ゐ るので ある。 けれども それの みで はなく * 更に 文章 

に 迄、 それ を 及ぼして ゐ るので ある。 三十 三年 一月の 『日本 新聞』 に發 表した 『叙事文 

論』 は、 その 主張 を、 具體 的に 蚩曰 いた ものである。 此 論文 は 言 ふ 迄 もな く 彼の 寫生論 を 

根 據に据 ゑた もので、 云 は^ 文章 上の 寫生 論で ある。 私 は 此の 叙事文 論 を 紹介す る 前 

に、 先づ 彼の 寫生 一般に 關 する 考へ を、 順序と して 述べて 置かなければ ならない。 . 

彼が 隨筆 『病牀 六尺』 を 見る と、 一般 寫生 論と して 稍 纏った 考へを 書いて ゐ るから * 

それ を 紹介す る。 『寫 生と いふ こと は、 畫を 書く にも、 記事文 を 書く 上に も 極め C 必要 

子規の lEC 生 文 論 , 1 八 * 



正 岡 子 SI .lAIC 

な もので、 此の 手段に よらなくて は、 畫も 記事文 も、 全く 出來 ない というても よい 位 

である。 これ は 早くから 西洋で は 用 ひられて 居った 手段で あるが、 併し 昔の 寫 生は不 

完全な 寫 生であった 爲 めに、 此頃は 更らに 進歩して 一 歷 精密な 手段 を 取る やうに なつ 

て 居る" 然るに 日本で は 昔から 寫 生と いふ 事 を 甚だ おろそかに 見て 居った 爲 めに、 畫 

の 發達を 妨げ、 又 文章 も 歌も總 ての 事が 皆な 進歩し なか つたので ある。』 それが 習惯と 

なって 八 「日で も 未だ 寫 生の 味 を 知らない 人が、 十中八九 も ある C 畫の 上に も 詩歌の 上 

にも、 理想と いふ 事を稱 へる 人が、 中々 少 くないが、 夫ら は寫 生の 味 を 知らない 人で 

あって、 寫生 とい ふこと を 非常に 淺 まな 事と して 排斥す るので あるが、 其の 實、 理想 

. の 方が 餘稈淺 蒲であって * とても 寫 生の 趣味の 變化 多き に は、 遙 かに 及ばない ので あ 

る。 

理想の 作が 必す しも 惡 いとい ふわけ ではない が、 普通に 现想 として 顯れる 作に は、 

悪い のが 多い とい ふの が事實 である。 现 想と は 人間の 考へを 表すので あるから、 其の 



八 il が 非常な 奇才で ない 以上 は. 到底 類似と 陳腐と を 免れぬ やうになる の は 必然で あ 

る。 固より 子供に 見せる 時、 無學 なる 人に 見せる 時、 初心なる 人に 見せる 時な どは理 

想と いふ ことが 其 人 を 感ぜし める 事がない ではない が、 略々 舉 問が あり、 見識 ある. 人 

に兒 せる, S に は、 非常な 偉人の 變 つた 理想で ない 限り は、 到底 其の 人を滿 足させる 事 

は出來 ないで あらう。 是れは 今日 以後の 如く、 敎 育の 普及した 時代に は 免れない 事で 

ある。 

之に 反して、 寫 生と いふ 事 は、 天然 を寫 すので あるから、 1K 然の 趣味が 變 化して ゐ 

る だけ それだけ • 寫生 文、 寫^ 畫の 趣味 も變 化し 得る ので ある。 寫 生の 作 を 見る と、 

1 寸淺 蒲の やうに 見えても、 ^く 味へば 味 はう 程變 化が 多く 趣味が 深い ものである。 

寫 生の 弊害 を 言へば * 勿論い ろくの 弊害 も あるで あらう が、 今日 實 際に 當て はめて 

見ても、 g想の弊害ほど^^vしくなぃゃぅに思ふ。『理想とぃふゃっは、 一 呼吸に 屋根の 

上に 飛び上がら うとして * 却って 池の 中に 落ち込む やうな 事が 多い。 寫生は 平淡で あ 

1 八 七 



る 代りに、 さう した 仕 損 ひ は 無い ので ある。』 さう して 平淡の 中に 至 味を寓 する ものに 

至って は、 其 妙 實に云 ふべ からざる ものが ある。 

右の 寫生 論に 於いて、 彼の 寫 生に 關 する 考へ、 乃至, は 彼が 理想 を 嫌 ふわけ を. 大體 

知る ことが 出來 る。 叉 彼の 『叙事文 論』 卽ち寫 生 文 論なる もの は、 斯うした ところから 

生れた ものである。 私 はこれ から、 その 『叙 第 文 論』 ー篇の 中に 彼が 述べて ゐる ところ 

を * 紹介しょう 思 ふ。 

彼 は 言うて ゐる、 『こ. -に言 はんと 欲する 所 は 世の中に 現れ 來 りたる 事物 (天然 界に 

て も 人問界 にても) を寫 して 而 白き 文章 を 作る 法な り。 或る 景色 又は 人事 を兒て 面白 

しと思ひし^^に、 そ を 文章に 直して 讀者 をして 己と 同様に 面白く 感ぜし めんと する に 

は、 言葉 を 飾る ベから す、 誇張 を 加 ふべ からす、 只 ありの ま X 見た ま X に 其 事物 を模 

.寫 する を 可とす』 と。 

同じく 叙事に も、 子規の 言葉 を 借りて 言へば、 『概叙 的と 個人的 (叙述)』 とが ある。 



概叙 的と は、 例へば 左: 義 長の 事 を 記す るに、 

我 地方に て は 一 月 某日の 日左義 長と いふ こと あり。 其方 法 は 其 前日に 町中の 子供 

等 を 打ち つれて 家々 を 廻り、 其 家. の 飾り を 貰 ひ 築め 云々 …… 翌朝 郊外に 三 間 乃至 

五 問ば かりの 見 あぐる 程の 飾りの 塔 を 築き 云々 : • … 之に 火を點 すれば 見る. (-火 

焰は天 を 焦して 遂に 塔 は 崩れ 云 々 …… 此時皆 持ち 来りし 餅 を 竹の 尖に 挾み 其 火の 

巾に 入れて 燒き之 を 喰 ふなり 云々 …… 

の 如く、 それの 一般的 や リ方を 述べる ことで ある。 これで は左義 長の やり方の 大體は 

知る (是れ は 知識の 上) ことが 出來て も、 左義 長の 趣味 を感 する (是れ は 感情の 上) こと 

は 出来ない。 けれども 若し 又、 之 を 書き方 を換 へて * 

…… 此 日の 朝 は 一 面の 曇りで { 仝 は猶雪 を 催して ゐる。 野 は づれに 出る と 北の方に 

兑 ゆる 山脈 は 一 面に 雪 を かぶって 共 中で 一 桥高 いのは 〇〇 である。 あたりの 麥畑 

に は隈々 に まだ 雪が 殘 つて ゐる 云々 …… 

K 子の 寫生夂 論 J ベ * 



火 は 次第に 攄 がって 竹の はじく 昔 は實に すさまじい、 忽ち 〇〇 おろしが 吹いて 來 

たと m ぬ ふと 焰は頂 迄 吹き 拔 いて、 見る/ \ 眼前に 一 筒の 火の 注 は 現れた、 云々 …: 

の 如き 體 裁に 書いて、 初めて、 其の 有様が 彷彿と して 讀 者の 眼前に 現れて 來る。 個人 

的 (叙述) とい ふの は 此の 幕 を 指す ので ある。 もっとも 此の 如く 作者 自身の 『實 驗を寫 

す ときには、 共の 記事 は 或る 一部に 限られて、 全體の 風俗 儀式 を盡 さぬ とい ふ 缺點が 

ある。』 けれども 美文 郎ち 面白みの 一 點 から:; 5^ れば、 全 體を盡 さな いのは、 亳 しも 缺點 

として 見る ことが 出來 ない、 許りでなく 却て 或る ! 部分の みが 眼の 前に 活動して 來る 

ために、 益々 {4j 想に 遠ざかって、 實 際の 感に 近づかし むる ものである。 風俗 儀式 其 物 

が 非常に 他と 異 つて、 面白き 時 は、 只 共 風俗 偽 式を概 叙す る も、 猶 幾分の 面. H 味 を 生 

する けれども、 それ とても 猶 乾燥無味に 陷 るの を 免れる ことが 出來 ない。 唯續 者に 欠 

仲 を 催さし むる に過ぎない。 されば それ を 趣味 ある やうに? Is< ?に俾 へる に は、 何う し 

セも 『個人的』 の 叙述に 依る より 外に 仕方がない。 



斯くて 子規 は 斯う:; 一一" つて ゐる。 『以上 述べし 如く • 實 際の 存 のま X を寫す を寫實 とい 

ふ。 又寫 生と もい ふ。 寫生は 畫冢の 語 を 借りた るな り、 又は 疏叙 (前に 概叙 といへ る 

に 同じ) とい ふに 對 して 賞 叙と もい ふべき か。 更に 詳に いは^ 虛叙は 抽象的 叙述と い. 

ふべ く * 實叙は 具象的 叙述と いひて 可な らん。 要するに 虛叙 (抽象的) は 人の 理性に 訴 

ふる 事 多く、 宵: 叙 (具象的) は 殆んど 全く 人の 感情に 訴 ふるもの なり。 虛叙は 地 圖の如 

く 實叙は 繪畫の 如し。 地 園 は 火體の 地勢 を 見る に 利 あれ ども、 或る 一 個所の 景色 を詳 

細に 見せ > 且つ 愉快 を 感ぜし むる は、 繪畫に 如く 者な し。 文章 は 繪畫の 如く 空間 的に 

精密なる 能 は ざれ ども、 多くの 粗畫 (或は 場合に は 多少の 密畫 をな す) を 幾 枚と なく 時 

問 的に 連續 せし むる は 其 長所な り。 然れ ども 普通の 實叙的 叙事文 は餘り 長き 時間 を 連 

鑌せ しむる よりも、 短き 時間 を 一 秒 一分の 小 部分に 切って 細く 寫し、 秒々 分々 に變化 

する 有様 を連續 せし むる が 利なる べし。』 

右に 於け る 彼-の 所謂 虛叙は 人 の 理性に 訴 ふるもの である こと は、 全く 事實 である。 

子 親の S ft 文 論 一, 九 一 



けれども 彼の 實 叙が 感情に 訴 ふるもの であるか 何う か 聊か 疑問で ある。 殊に 彼の 

實叙は 客觀を 叙述す る だけで、 主觀 をなる ベく 混へ ないやう に するとい ふ 例の 俳句 上 

の 彼の 客觀 主義 を 含んで ゐ るなら ば、 矢張り そ は 知識 的であって、 感情的で ない と 言 

はなければ ならぬ。 此の 事に 就いては 彼の 俳句 論 を 述べた ところに 批評して 置いた か 

ら、 委しい こと は玆に 省く。 

それから 彼は寫 生と いひ、 有りの ま&に 叙す とい ふけれ ども、 唯 無 やみに. 可 等の 律 ^ 

點 なく 叙述す るので はなく、 其の 間に 『多少の 取 拾 選擇』 を耍 する こと を說 いてなる。 

此の 取捨 選擇と は、 『面白い 處を とりて、 つまらぬ 處を 拾つ る 事に して、 必 すし も大を 

取 て 小 を 捨て、 長 を 取りて 短を捨 つる 事』 ではない。 或る 景色 又は 或る人 事 を 叙す 

るに、 最も 美なる 處叉は 極めて 感じた る處を 中心に して 描けば、 共景其 事 自ら 活動す 

るで あらう。 而も 其 『最美 極感』 のと ころ は 必ずしも 常に 大 なる 處、 著き 處、 必要なる 

處 にあら すして、 往々 物 蔭に 半面 を 現す が 如き、 隱微の 間にある ものである。 例へば 



簿. はい 恐し い 森の 中に 一-本の 赤 椿を兑 つくれば、 非常にう つくしく 且つ 愉快な 感じ を 

起す ものであるが、 此 時には 格 を 中心として 書く に 宜し けれど、 格 を 中心とす ると は 

必す しも 椿を詳 叙す るの 謂で はない。 森の 簿 暗い 恐し い 様 を 稍々 詳に 叙して 後に、 赤 

き 椿を點 出せば、 二百に して 著しき 感動 を讀 者に 與 へる であらう。 

次に 寫 生に ついては 何 麼文體 がよ いか、 とい ふに、 それ は 言 文! 致 か 又は それに 近 

い 文體が 一 桥適當 して ゐる。 言 文 一 致で もなる ベく 『平易に して、 耳 だ- -ぬを 主と』 し 

なければ ならない。 言 文 一 致の 內に 不調和な むづ かしい 漢語 を 用 ゐるは 極めて 悪い。 

霄 葉の 美 を 弄する は、 寫生文 以外に すべきで ある。 寫 I 莨に 言葉の 美 を 弄すれば、 寫赏 

の 趣味 を 失 ふ ものである。 

以上に 於いて、 子規の 寫生論 乃至 寫生文 論の 一般 を 述べた つもりで ある。 彼 は 斯う 

した 主張 を ! 方に 振りかざす と共に、 他方に 於いて は 自ら 寫生文 を 作って 鑌々 世に 發 

表した。 『熊手と 提灯』 『根 岸草廬 記事』 『病』 『ラム プの 影』 『初夢』 『くだもの』 『九月 

子 現の M? 生 文 論 一- i 



正 岡 子 想 一 

十四日の 朝』 『釵 待つ 間』 等の 幾多の 小品 文 は、 彼の 所謂 寫生 文に 外なら ない。 

此の 寫生 論 は文藝 史上に は、 彼の 俳句と 共に 中々 重大な 意義 を 持って ゐる もので あ 

る。 これ は 明らかに 寫實 主義で あると 共に、 素朴なる 一種の 自然主義、 或は 自然主義 

の發 芽で あると 見る ことが 出来る。 而 して 主觀 主義と いふ 根深い 日本 藝 術の 傳統の 中 

にあって、 自覺 的に 客觀 主義 を 標榜した の は、 明治 文藝 a- 上に 萬 丈の 氣焰を 吐く もの 

である。 

けれども 當 時の 一 般文 擅、 殊に 小 說界ゃ 新 體詩界 や 叉 は 短歌 界 にあって は、 新しき 

主觀 主義 卽ちロ マ ンチ シズム が將に 全盛な らんと して ゐ るお 様であった ので、 彼の 客 

觀 主義の ホ; 張 も 唯 俳句 界 及び 俳人の 手に 於け る 文章の 範圍 內に迎 へらる 乂 だけで、 そ 

れ 以外の 文 擅 は 深く 動かす ことが 出來 なかった ので ある。 

日 露戰ハ;;^ が 過ぎて 我が 文壇 は 初めて 客觀の 重大なる 事、 閑却す ベから ざる こと を 知 

。た っ歐洲 大陸 殊に 佛 露の 自然主義 は 潮の 如く 我が 文壇 を 席捲し 風縻 した" 日本人 は 



此 新しい 風潮に 依って 初めて 客觀 主義に 目覺 めた ので ある。 

けれども 客觀 主義 は それ迄 日本に 存在し なかった ので はない。 十 年 近く も 前に、 旣 

に 子規に 依って 唱 へられて ゐ たので ある。 勿論 子規の 寫生 主義と 當 時の 自然主義と は • 

全然 训 筒の 運動で あり、 其の 主張 も 全く^ 種の ものである。 けれども その 客觀 的なる 

點に 於いて は チ規の それ は 明らかに 自然主義と ! 脈の 相 通す る もの X ある こと は事實 

である。 されば 子規から 初 ま つ て 僅か に 叙事文と しての み 特色 を 保って 來た寫 生 文が、 

自然主義の 運動が 起る と共に、 漸く 文壇 一般の 中に 乘り 出して 來て、 小說 家と しての 

廐 子、 寺 田 寅彥、 鈴 木 三重 吉、 野 上白 川 等の 諸氏 を 生む に 至った の も、 必 すし も不思 

議 ではない。 I f "i • I. 



現 め jal 生 文 ^« 1 九 m 



■is 岡チ現 



i 六 



子 規 

度應 三年 (一 歳) 



明治 四 年 

同 六 年 

同 七 年 

同 十二 年 

同 十六 年: 



(五 S 

(七 歳) 

(八 歳) 

(十 三 歳〕 

(十 七 



同 十八 年 (十九 歳) 

同 二十 年 (廿 一歳) 

同 二十 一年 (サ 二き 



九 n; 十七 日 豫國松 3 市 新 玉 町に 生る。 幼名 を常規 とい ひ 松 山 

藩士 正 岡常尙 氏の 息たり。 

マ ^ 稱&, I 之 助 を 升と 改む。 

法 隆寺內 の 寺 子 接に 通學 す。 

松 山 市 勝 山小學 校に 通學 す。 

膨山小 學校を 卒業して 松 山 屮學に 入 學す。 

松 山中 學を 退き 東京に 出で、 赤 坂 漢學塾 或は 共立 學 校に 學ぶ。 

叔父 加 藤 拓川氏 の 紹介に て 初めて 陸 羯南氏 を 知 る。 

一 ッ 橋の 大 學豫備 門に 入學 す。 夏 松 山に 歸省" 

夏 松 山に 歸省。 十二 H 藩主 創立に か る 本鄉眞 砂 町の 常 磐會寄 

{ 们舍に 入る。 

夏季休暇 中、 向島 長命 寺 境 內の櫻 餅屋に 臨時 寄寓す。 



同 一 一十 I 一年 (廿 S 歳) 



同 1 1±1 一年 (廿 四 歳) 

同 一 一十 四 (廿 五 歳) 

同 二十 W 年 (廿 六 8 



三月 末腦 病- 2 胃され て房總 地方 を 旅行す。 五月 初めて.^ 血。 此 

顷ょリ 子規と 號す。 夏 休屮松 山に 歸 省。 十一月 大錢に 遊ぶ。 此 

冬 S; よ リ內藤 鳴、 f 〈一、 竹 村黃塔 等と 漢詩 及び 俳句 等 を作リ 八" ふ > 

又 非 風、 飄. 等と 共に 紅葉 會を紐 織して、 俳句の 外、 戯文、 ゆ 

詩、 都々 逸 等 を 作る。 十二月 歸省。 

六月 高等 中 學校を 卒業" 夏 松 山に S 省。 九月 東京 帝國大 學國文 

科に 入學 す。 野球 を 盛んに 試む。 

^f^^;『かけはしの記』を作る。 夏歸 $p。 九月 大 {«c 公園に 宿 を 求め 

て 追試 驗の 準備 をす る 傍ら 俳句 分類 を 思 ひ 立 つ ig.^q に 轉ほ し 

て小說 『月の 都』 を 作る。 

三: C 末に 下 谷 區上极 岸 八 十八番 地に 韓 居す。 六月 『獺祭 書 尾 俳 

話』 を 『H 本 新聞』 に揭げ 初む。 大學ニ 年の 試驗に 落第す。 夏 松 

山に 歸贫〕 九月 大學を 返く。 十 一 月日 本 新^社に 入る。 十 一 月 

家族 を 東京に 呼び出すべく、 神 戶に出 す。 此 年に 『日本 新聞』 



チ規 a- 



15* 



正 岡 現 



一 九 八 



同 二十 六 年 (骨 セ 歳) 



同 二十 七 年 ¥ 八 き 



に 『かけはしの 記』 『旅 の 旅の 旅』 『大 機の 月見』 『日光 の 杠葉』 『舊 

都 の 秋 光』 『歳 晚閉 話』 『高 尾 紀行』 等を揭 載す。 

一月、 自宅に 俳句 大會を 開く、 十;: 白、 鳴 雪、 松 宇、 飄亭、 桃 雨、 

得 中、 五州 等 集る。 三月より 『日本 新 ra』 に 俳句 や 載す。 七月よ 

リ 八月に かけて 奥 羽 を 行脚す。 十 一 月 『口 本 新 ra』 に 『芭燕 雜談』 

を 載す。 此ハ 牛に 『日本 新 ffl』 に 右の 外、 『歳 n 面 話 J. 俳人の 奇; 仃』 

『古人 調 十二 體』 『文 界八ッ あた リ』 『はてしら ずの 記』 『春光 秋 

色』 「菊の 園 生』 『貧 居 八 詠』 等 を 載す。 吉川弘 文 館よ ひ 俳 話 集 

『獺祭 * 屋俳 話』 を屮ぃ 版す。 

二 H: 一 口上 极 :;- 八十 二番 地に 韓 K す。 二 『小口 本』 の 編: W 主任 

となる。 初めて 此時中 村不祈 氏と 知る。 七月 『小 日本』 a 刊 W び 

元の 『曰 本 新聞』 に 入社す。 此年 『小口 本』 に 『俳諧 一口話』 『一 日 物 

語』 (小 說) を、 『口 本 新聞』 に 『文 界澄 言』 『字 餘り和 欲 俳句』 rra 遊 

半 曰』 『お 世 援錢』 (小 說) 等 を 表す。 



同 1 1 十八 年 (廿 九 歳し 



同 1 一十 九 年 (三 十 歳) 



同 三十 (三 十一 歳) 



身體の 虚弱 を 顧みず、 日淸戰 ゆの 從軍 記者と たり、 四月 十日 笫ニ 

軍に 從 ひて 宇 品 出帆、 四月 十九 :!! 旅 順に 着す。 五月 十日 のた 

めに 金 州 を 出發、 十四日 大 一?J5 ょリ乘 船して 歸途に 就く。 船屮咯 

. ^し、 益々 望し、 廿三 口 祌戶 病院に 入る。 七月 須 磨に 韓地 

養す" 八月 松 山に 歸リ、 漱石氏宅に^55す0 此時涵 堂、 月 等に 

俳 を 講ず" 十月 歸京。 此年 『日本 新 M』 に 『羽 枝 一枝』 『陣屮 日記』 

『養 病 雑記』 『俳諧 大耍』 『椿 三昧』 等お 發 表す。 

此 年よ リ入, -く 病牀の 人と な リて殆 んど步 行の 自由 を 得ず。 僅か 

に 权橋赤 羽目 黑 及び 船橋に 遊びた るの みたり き。 此 年に 『俳人 

蕪 村 J を 稿し 初む。 -3! 其 外 『日本 新聞』 に 『俳句 廿 四體』 『從 記 

事』 『三十 棒』 曲と 四季』 『俳句 問答』 『松 蘿玉液 i 等 を 、『日^人』 

に 『文 學』 『新體 詩』 等を發 表す" 

十 一 月飄 亭,. 碧 梧桐. 虚子 V 等 を ffi- めて 小說會 を iS く。 此 年よ リ 

腰部の 痛み 漸く はげしく、 廄汁 盛んに 出づ。 松 山に て 柳 原;^ 堂 氏 



乎 現 年 



一九 九 



正 岡 子 現 二 00 

俳諧 雜誌 『ホト 、 ギス』 を發刊 す。 『日本人』 に 『新體 ほ 『新 體詩祌 

韻の 事』 を 『日本 新聞』 に 『明治 廿九 年の 俳句 界』 『俳句と 漢詩』 『賤 

の 淚』 『俳 入 蕪 村』 を、 『ホ トト ギス』 に 『俳諧 反. }c 籠』 『十 八 字句』 

『石廿 句』 『試問』 『俳句 分類』 を、 雜誌 I 新 小說』 に 『花 枕』 C 小說) 『月 

見 草』 (小 說〕 等を發 表す。 

同 三十 一年 (W 二 ^) 1 月より 鳴 雪、 虚子、 桐 等と 共に 蕪 村 句集の 輪講 を 初む。 

二 a; 竹 5 M 人と 號 して 和歌 >以 革に 志す。 三 ほ『= 本 新 SJ- に作耿 

を發 表す。 句 築 『新 俳句』 を 選す。 九月 『ホ トト ギス』 東京に て發 

行す る こと、 なる。 此年 『ホ トト ギス』 に 『試問】 『燕 村 忌』 『或 

_ 問』 『拜 啓』 『雜 感』 『古池 の 句の 辨』 『小 IS の 記』 『土 湾 磨を毁 つ 僻』 

『花貲 子 歌、 璺 年の (新體 詩) 『ief 上 所見』 r 文學 美銜漫 ly 『燕 

村と 几董』 『吾 幼時の 美感』 『村の 光』: 新體 詩) 等 を、 『日本 新 11』 

に』 三十 年の 俳句』 『閑人 閑 aj 默 人に 與 ふる 書』 『百 中 十 首』 (和 

耿) 『人々 に: ふ』 (欲 論) 等を發 表す。 



同 三士 一年 (箭 三 歳) 



同 三士 二 年 (W 四 歳) 



同 三十 四 年 (卅 五 歳) 

チ規年 



三月 十 w 日子 规 庵に 歜會を 開く、 これ 卽ち根 岸 短 欲會の 始ま リ 

也。 五月 1^ 危篤に 陷れ ど乂稍 快復す。 此年 『ホ トト ギス』 に 俳 

句 新 淤の倾 向』 『雲の 記』 『明治 三十 一^の 俳句 界』 『俳句の 初 

步』 『和 欲』 『燈』 『冬 の 鬼 京』 『炭 太 紙』』 幻 住 庵 の 事』 『俳句 と聲』 『隨 

問隨 答』 『戀』 『蝶』 『赤』 『俳句 評 釋を讀 む』 『橘の 爭』 『旅』 『ゐ ざり 

車』 『墓』 『飯 待つ i^』 『星』 『袖 ft !』. 闇汁圖 w』 『俳諧 三 佳 書 序』 『根 

岸革廬 m 事 』〔i 手と 提灯』 『病』 等 を、 乂 『日本 新 §』 に 『萬 葉 第 

を讀 む』 『曙覽 の 歌』 『病 牀譜 ss』 『歌 話』 『道 灌山』 等を發 表す。 

此年寫 生 文の 創始 を 企つ。 四月 4= 九 口、 人力車に て龜 井戸の 藤 

の 花 を 見に ゆく。 『ホ トト ギス』 に 『新た や 』『 犬』 『ランプの 影』 『叨 

治讲ニ 年の 俳句 界』 『獎 の 句』 『奇想 變 調錄』 『蜜』 『召 波撐良 句集 

序』 『車上 の 春光』 『水 滸傳と 八 犬傳』 等 を 、 又 『日本 新聞』 に 『鶴 物 

語』 『短 欲 超 考』 『龜 戸まで』 『人の 紅葉 狩』 等を發 表す。 

此 年に 入りて ょリ 漸く 篤く、 され ど- M 其の 强き 意志と 元氣と 



同 



正 岡 H- 規 



三十 五 年 (箭 六 き 



を以 つて それ を 打ち 抑へ 居れ リ 。此年 『ホ トト ギス』 に 『初夢』 『死 

後』 『病牀 俳 話』 『くだ も の』 等を發 表す。 w 『口 本 新 i™』 に隨筆 『墨 

汁 一滴』 を 一月 二十日より 七月 二日 迄 執筆して 載せたり〕 

前年の. 墨汁 一 滴』 の 綾き とも 見るべき 隨筆 『病牀 六尺』 を 五 五 

日よ リ 『日本 新聞』 に 載せ 初めて、 臨終に 近き 九月 十七 日に 至リ 

て やむ。 此 swl^ 牀 にあり て 翁 筆 を 手に して tJ? 生を樂 しむ。 此年 

『ホ トト ギス』 に 『夭 王 寺畔の 鍋 ii-iaj 『is 牀苦 語』 f 徒歩 旅行 を讀 

む』 『九月 十四 = の 朝』 等を發 表す。 九月 十九 日 午 =11 一時. ャ h に 逝 

く。 辭 世の 句と して 「糸瓜 いて 痰の つま リし佛 かた」 「痰 一 ヰ 

糸瓜の 水 も にあ はず」 「をと とひの 糸瓜の 水 もとら ざリ き」 を 

遺す。 田 端大龍 寺に 葬らる。 

;— 7 —1 



s 二 四 七 一 (京 東〕 簪提 



一お 



大正 七 六月 1 = 印刷 

大正 七ギ 六月 六日 發 行, 



正 

規 



著作者 

S . 行者 



發 行 所 一 



f 定 便 金 六十 錢) 



西せ !1 藤 朝 

東京 巿 や;; 一!SUK* 町 一一! 恭 地中の.: e 

佐藤義 亮 



束 京^ 牛 込 區 矢 來町三 称. i 

新潮 社 

八 〇 九 《 



電話^ 町. 



八 九九^ 



印刷所 



東 t へ市祌 E.iilK 本 町 五 

let.- 下お、 wo 六 七 * 



印^ S 



新潮 社印 0^ 部 

高 橋 35 1 




正 岡 子規 作 

定價三 十八 錢 

. * 芽. t«5w 郵送料 六 錢 

明治 新文藝 の先驟 者と し、 革命家と して、 華々 しき 功 fS を 我が 文 境に 殘 せる 正 岡 

子 S がその 集中よ リ小 說, 紀 行. 小品. 寫生 文. 和歌 . 句 の 各方 面に 於け る 代 

表 的 傑作 を宽錄 せる もの。 se に 明治 文药. お 上の 一 大|5|ぶふ^::,:たらずんばぁらず0 半生 を 

病に 伏し、 血 を きながら 書け る 其 作に は、 悲凉 s?g あり、 凄偷の fis ぁリ、 一字一句 

恻々 として 人 を 動かす 人格の 底 深く 极ざせ る SM 侗 生き た る 文 學は是 れ也。 




高 濱虛子 著 

0\M 定價三 十八 錢 

穿ノも 郵送料 六 錢 

夏! = 漱石 氏が 「女郎 ヒリの 細君の 性格 を かいて 辦樣に 活躍せ る もの 明治に 在って 正に 

空前 …… 」 と激稱 せる もの 也。 俳諧師 十 風 夫婦の 悲慘 なる 一 涯を 描く に 彼の 子規 以来 

の寫生 文の 维を 以てし、 謂 ゆる ホト 、ギス 派 文 ま-の 最 點に 位?^ する 作物に して、 共 

の屮に は 著者 自.: Jj: の W 年 時代 點緩 せられ、 正 岡 子規、 內 雪 翁 を 始め 子规 左右の 

人々 活躍し、 作品と しての 價値 以外、 更に 事 上の 興^ 極めて 璺 かなる 作品 也。 



著 氏 江 秋 松 近 



^ お M P3 

刊 新-- ニ本类 製特 
錢六料 送- 錢 五十 五價定 




高 濱虛子 氏 著 

綿 中れ 紙 リ V 定價 八十 五錢 

i>S.v 者 題字! W 美本 マお 一 155 八錢 

寫生文 派の! 5 旅 幟を樹 て、 文 境の 一 ^に雄^せる高濱虚子氏が、久振りにて短篇^€を公 

にせら る。 作^^^齢こ、に四十、 人 E^.^ の圓熟 はこの 渾然たる 藝術品 を 成せる 也 。載す る 

所す ベて 七篇、 いづれ も 最近に 於いて 噴々 の 世評 を 得た る 傑作に して、 作者 會 心の 作の 

みとす。 作者 自ら 曰く、 •「 これ 等 は 皆 作らう と S わって 作った ので はない。 害かねば なら 

ぬ やう- N 、: i 持が して 書いた ものである。」 と。 ! K に 光 あ リカ ある 藝術 はこれ 也。 



作家と しての 秋 江 氏は旣 に 定評の^ する ぁリ 而も、 詩 ゆ. - に 富 み 

„K 間^に 旭 かなる 一 種の 小品 文の 作者と して は、 何人も 追隨す 

ベから ざる 獨自の 地位 を 文壇に 占めつ. -ぁリ e 自然 を赏 し、 女 

を 品し 覊 旅の 懷ひを 描き、 都會 の. おに あこがれ、 狭斜の 情を寫 

して自 铁、; 詩人と しての 一 而と 好色の たはれ 男め ける 1 面 

と ffl. 混じて、 そこに 氏獨 の而 味 あ w-e 本 5^2 はこれ らの 小品 

を 集めた る ものにして、 氏の 小說集 以上に 盛んに 愛讀 せられつ 

、ある もの、 眞に 偶然に あらず。 以て 机上の 伴侶と なす 可く、 

以て 枕頭に 親しむべき 也。 . 



岡 本 綺堂氏 著 (第 < 版) 




竹久 氏裝、 お 憤 九 拾錢、 送 5: 八錢 



S 松 e 戯曲に はれた る 美しき g の 

さま <\ を 短 篱小說 風に 書き改めし 

もの。 若き 男女が、 うつ、 なの 慰の 

夢と 慰の なげきと は、 色彩の 登 力な 

る 作者 を 以て 名優 、; さ 

ながらに 描き出されたり。 有の 才 

筆と して、 ft 評 a 々高し C 



長 田 幹 彥氏著 (第五 5 




き 口 



竹 久夢ニ 氏裝、 定價九 拾^、 送料 八錢 



g: 鶴の 書、 當局の 厳禁す る 所と なり 

たやすく 讀み 難き を 憾み、 好色本 巾 

の 双 壁に る 『1 代 女 『一代 s£ のニ大 

作 を 現代 文に 書き改め しもの 也- S 

冶". 麗ん彩 筆、 たはれ 男、 たはれ 女の 

情事 を 描き 盡 くせる 好 ^ の 情話と し 

て、 今の 人の 讚む に 最も 適す。 



吉井 勇 氏 著 (第五 版) 








竹久夢 二 氏裝、 定惯九 拾錢、 送料 八 餞 



戀 愛文 學 として 古今に 冠絕 する 激氏 

物語 を 現代 文に 縮 53? し、 その;^^趣豊 

かなる 部分 を悉 く I -て此 一 卷を 得た 

り。 事赏は 光る 源氏 1 生の 情史、 筆 

者 は 現代 禁胄 の 達 男た る吉井 氏。 

作と 人と 相 待ち 相 得て 『源氏』 以後 更 

に 新たなる 『源氏』 あるの 思 あらん。 




著 氏 袋 花 田 
成 完 刷 縮 作 部 三 



C3) 


(2) 


(1) 


緣 

版 四 


妻 

版 三 


m 三 



錢六 各科遂 * 錢拾六 各便定 







目 漱石著 (セ S 

選集 spj 0^ 

定價 《^參 拾錢、 や :! 料 八錢』 



曾て. s:!: なる is^ に も收 めら れ ざる 『偷敦 消息』 に 始ま 

り、 『^が 楚は 猫』 『二百十日』 以下、 漱石 先生が 十 

數3^間に苴れる4^若作中ょり最も代表的なるものを 

び、 その 短き は 都べ て を 探リ、 長き: 2 最も 耍所切 

所 を Aa める 部へ" をと リて 化; の 前後 を 解 し、 而 して 

是れを 歴史的に 排列して 以て 1 册 となす。 堂々 五 百 

五十 頁 まさに、 漱石 先生 仝 傑作 選 ffi- と 呼ぶ 可き 也。 



► IS 八 拾 五錢、 送料 八錢 



『生』 は 若き 文舉 者の 

生活 を 中心として 新 

しく 伸び ゆく 命と 古 

く 朽ち ゆく <w との 封 

に 生の 悲劇 を 描き 

『妻』 は ;文學^!?の壯 

,ポ 時代 を 描き. 王と し 

て 兩性關 係の 祕 iS を 

おばく。 『緣 は蒲圑 

の 後日 譚 とも 稱 すべ 

きもの。 何れも、 花 

袋 氏の,::: J 傳小說 也 



二 家 ま 



▼ mt^. 錢、 送. E 八. S 



第 第 

一 一 

m 編 



(胆 再) 
江 
馬 

修 
著 



(刊 新) 
本 
間 
久 

雄 

著 



(版 再 J 



is 




特 a 送 

穀六料 

类 十六 

本錢ぉ 

明治 及び 4 へ 正の 文壇 に 文豪 の 名 を 謳 はれた 人 々 の 全 面目 を ふるもの であ 

る。 海外 崇拜の 時代 漸く 去 つて EE! お ら 其の 獨,: 31 の 文學を 生まん とする 時 

に 當り本 叢窨を す。 必すゃ 一 S の 歡び迎 へらる.^ こと を 信す る。 



第 三 提 



第 B s 



, 人 及び 藝術 

^!^としての 



正 岡 子 



近 

刊 



西 宮藤朝 著 



_« 人 及び 思想 

家と しての 



高 山樗牛 



_n ば^ 尾 崎 紅葉 



"^ss ,國木 田獨步 



赤 木 桁 平 著 



f 多、、 
ど 




00 

1 3 2 

L 1 88 

p 8 A 7/-